【書評】柏柳明子 第2句集『柔き棘』(紅書房、2020年)


〈街〉に生かされている〈わたし〉
:柏柳明子『柔き棘』(紅書房、2020年)


俳句はどこでも詠むことができる。

旅先でも、自宅でも、病床でも詠むことができる。

それは多くの場合において、俳句のヴァリエーションに豊かさをもたらしているのだけれど、しかしこれは案外、厄介なことでもあって、場所に囚われすぎてしまうと、そこにいる〈わたし〉は一体何者なのか、という問いを前にして、立往生してしまうことがある。

【都市の〈いま〉を描く句集】

その点、この句集は明快である。句集には、それなりの人口を擁する〈街〉の姿が、生き生きと描き出されているからだ。

  北風を蹴るやスペイン坂の恋
  黄落や手を近づけし自動ドア
  熱帯魚回るメンタルクリニック
  エコバッグたたみ拳法記念の日
  六月の雨を見てゐる留学生
  SEの淡き説明白マスク

渋谷駅からパルコのほうに登っていく「スペイン坂」は、うねるような低い石階段で、その途中には「カフェ人間関係」などという老舗の店もある。現在からみれば、渋谷西武的な広告文化の隆盛はなつかしく、〈街〉そのものが、人生の進展に先行しているということ、それを象徴するような一句だ。

「黄落」という季語は、通例の考え方でいけば、「自動ドア」とそれほど近しい存在ではないが、しかし街路樹沿いにビルの自動ドアがあることは、都市部であればめずらしいことではない。寒さのせいなのか、ドアが開かずふと手をかざしたわけだが、冬が近くにつれて、自分の存在が薄れているような感じもあって、その奥には作者の内省が感じられる。

「メンタルクリニック」「エコバッグ」「留学生」「SE」――こうした対象を、かんたんに「句材」と呼んでいいかどうか迷うところだが、これらは明らかにここ十年、二十年の日本の状況を反映したものでもあるだろう。

ただし、単に通俗的であるというわけではなく、精神をすり減らす現代人、悪化が止められない地球環境、グローバル化で流動する人材、もはやそれなしには生活を送ること自体が困難になってしまったデジタル環境、という同時代の「痛々しさ」がさりげなく、詠み込まれている。

【「空想の国」というイメージの反復】

その反動なのだろうか。この句集のなかには、現実から遊離した「痛みのなき世界」への逃避が、しばしば反復されている。

  永遠を口にするとき檸檬の香
  一ページ先の未来へ冬の虹
  木耳や空想の国から戻る
  迷宮のはじまつてゆく毛糸玉
  分身の歩いてきたり西日中
  鱗雲顔のなくなるまで立てり

三句目の「空想の国」に象徴されるように、作者は白昼夢を見る。それは現実には〈場所=トポス〉をもたない「ユートピア」である。そこで作者は、肉体をもった〈わたし〉という存在の重さから解放されて、精神だけになってしまったようにも見える。

だが面白いのは、ここでも「檸檬の香」という実体に、「永遠」という観念が先行しているということだ。檸檬の香をかいで、永遠を思ったのではない。たまたま永遠の話をしていて、ふと柑橘の匂いが漂ってきたのである。ここでの永遠は、作者の生活を包み込んでいる〈街〉と似たような機能をもっている。

【季語とは〈街=トポス〉のようなもの】

そもそも、季語とは〈街=トポス〉のようなもので、それなしに俳句の世界の住人になることは、なかなかどうして難しい。

季語が現実世界そのものかというとそうではなく、先人たちの積み上げてきたイメージの集積なのであり、その点においては〈街=トポス〉が直接的には描かれない以下のような句が、作者の本領を示しているということになるのだろう。

  せつかちにつくられてゆく燕の巣
  既視感のふくらんでゆく毛糸編み
  手鞠唄あかるきものの燃えやすし
  しやぼん玉誰かの忘れたる上着
  口にふくむ人肌ほどの甘茶なり

このあたりは作者の「眼」が効いた句ということになるが、このなかでも「既視感」がふくらんでゆく、という表現の面白さは、作者のオリジナリティだ。それは都会的であるということと、やはりどこかでつながっている。

「あかるきものの燃えやすし」という把握も、一見すると虚子の句にありそうな文体だが、よくよく考えてみると観念的である。もちろん、燃えてしまえば炭化して真っ黒になってしまうのだが、この「あかるきもの」という抽象化は、人間の命などまで含んでしまえるために、ある種の恐怖感を奥に潜ませている。

【世界の手ざわりのほどよい〈重さ〉】

しかし全体的として目を引くのは、日常をやすやすと異化してしまうようなユーモラスな言い回しや表現だ。

  剥くほどに母うつくしくなる林檎
  肉食の祖母の遊べる花野かな
  〆切の一つとして死クリスマス
  台風圏四角くたたむ明日の服
  陽炎の妻のかたちとなりにけり
  釣堀や加藤一二三のやうな雲
  父帰るかほに木枯張りつけて
  へうたんの恥づかしさうに太りけり

これらの句からは、〈わたし〉の存在がふっと軽くなる前に、世界のリアリティがほどよい〈重さ〉をもって、立ち上がってくる。たとえば、「肉食の祖母」という表現によって、この花野はサバンナのようにも思えてくる。それはけっして、抽象的でどこにでもあるような花野ではない。

あるいは帯にも引かれている〈台風圏四角くたたむ明日の服〉では、強風で木々は乱れ、トタン屋根には何かがぶつかる一夜に、それとは対照的な整然さを「明日の服」にもたらしているというのがユーモラスだ。〈わたし〉はどこかに飛んでいくのではなく、おそらく床に正座をして、しっかり地に足をつけて、秋の夜長を過ごしている。

最後の〈へうたんの恥づかしさうに太りけり〉も、ありそうでなかった句だろう。瓢箪の独特の曲線美は、どこか恥じらいを感じさせる。同じ句集には〈人参をなだめるやうに炒めけり〉という句もあり、こちらも日々の料理の一コマを楽しく描いている。私がイメージするのは、たとえばきんぴらだ。

最初は硬かった人参の細切りが、しなしなと柔らかくなってくる。ある程度のところで見定めて、しょうゆと酒とみりん、唐辛子をきかせて、できあがり。この人参、本当は生のまま食べてほしかったのだろうか、などと考えても面白い。

ここでは引かなかったが、ゴスペルやフラメンコを嗜む作者には、音楽に関する句も多い。それは5年前の第一句集『揮発』から一貫しているようだ。しかし、そのような趣味的世界に生きるリアルな〈わたし〉よりは、それなりに人が集まって暮らしている〈街〉の姿が、生き生きと描かれているように感じる。

もっとも、その〈街〉は、港区や品川区のような「都会」ではない。たとえば、その〈街〉には、「釣堀」があり、ゆったりとした鷹揚な時間が雲とともに流れている。マツコデラックスの番組などに出るようになって、茶目っ気をたっぷりを見せているかつての天才棋士は、おおらかで、包容力があり、この句集に書き込まれる固有名詞としては、大変ふさわしい。

【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。

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