一つづつ包むパイ皮春惜しむ 代田青鳥【季語=春惜しむ(春)】


一つづつ包むパイ皮春惜しむ

代田青鳥

彼女は卒業制作のテーマを考えなければならなかった。
東京出身だが、地方にある美術大学に学び、順調にいけば来年卒業になる。
専攻は「現代アート」。卒業制作のテーマとしては何を選んでもいい。
自由といえば自由だが、その分不安も大きい。
何をしたいのか自分でもわからなかった。

彼女はまた料理が得意でもあった。
一人暮らしをするようになってから、食事は基本的に自炊を心がけた。
もともと凝り性で手先も器用だったから、
料理の腕も日々どんどん上がっていった。

中でも彼女が得意なのはパイ皮を使った料理だった。
パイ皮を使った料理には無数のレシピがある。
「サーモンの魚型パイ包み」、「きのことチキンのパイシチュー」、
「大根のクリーム煮パイ包み」などレシピがあるものはほとんど試し、
レシピにないものもトライした。

彼女はパイがオーブンの中で焼けていくその時間も好きだった。
あたたかく、ほんのりと甘い香りが流れ出てくる。
その表面は膨らみ、うっすらと焦げ目がついていく。
一見同じようだが、一つとして同じものになることはない。
彼女はいつも、うっとりと焼きあがる時間を待った。

そんなわけで、卒業制作とパイ皮を使った料理を結びつけることは、
彼女にとって必然だったといって良い。
問題は、では何を包むか、ということだった。

さまざまな食材、あるいは食材ではないものも検討した。
アートとして考えれば、ある意味何を包んでも問題がない。
あらゆるものを検討したが、ぴったりとくるものは見つからなかった。

形のないものを包む、あるいは物理的に存在しないものを包む。
目を瞑って髪を洗っているときに、そんな考えが突然やってきた。

それから彼女は何も入れずにパイ皮を膨らませる研究を重ねた。
パイ皮を膨らませるのは、内側にある水分と、まだパイ皮が柔らかいうちに
水分を蒸発させるための熱量、それにかかる時間が関係する。
幾度も試作を重ね、彼女はついにほぼ球体でありながら
中に何もないパイを作る技術を見につけた。

それから彼女はメニューの名前を考えた。
「三連休の中日のパイ包み」、「四月の風のパイ包み」、「新鮮な食欲のパイ包み」
「子犬の寝言のパイ包み」などなど。青いインクを使ったカリグラフィーで、メニューを書き上げた。

日曜日が休みのビストロを借りて、
彼女は自分の作品を提供してみることにした。
一人で薄暗いキッチンに立ち、彼女は展示の準備を始めた。
用意してきたテーブルクロスを敷き、シンプルな皿を並べ、メニューを置く。
ひととおり終わったところで、深呼吸をし、そしてパイ皮に取りかかった。

どんなお客さんが来るのかもわからない。
どんな反応があるのかもわからない。
なんの反応もないかもしれない。
あるいは何もない中身に、ひどく憤慨する人もいるかもしれない。
しかし彼女は、とりあえずやってみることに決めた。
今、できることをやる。それだけだ。

窓の外の、ハナミズキの並木には新しい葉がつきはじめていた。
季節の変わり目の光が、厨房の奥の調理器具にも届いた。

一つづつ包むパイ皮春惜しむ
代田青鳥

「幸せ、といういう言葉にはきっと無数の定義があると思われるが、
幸せ、そのものは定義とは関係がない。
それはむしろ心と体が満たされている時間のことを指す」
と彼女は制作ノートに書き記した。

小助川駒介


【執筆者プロフィール】
小助川駒介(こすけがわ・こますけ)
『玉藻』同人。第三回星野立子賞受賞。
星野椿先生主催の超結社句会「二階堂句会」の司会進行係。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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