神保町に銀漢亭があったころ【第16回】仲野麻紀

パリ-神保町-銀漢亭

仲野麻紀(サックス奏者)

白山通りに面した蕎麦屋の二階に、やや怪しげな鍼灸の出版社がある。

サックス吹きの私は当時頚椎から左指にかけて故障をし、表向きは出版社だが編集室の片隅にある部屋で治療を受けていた。編集者でありこの鍼灸師の腕は相当なもので、何人のミュージシャンを救ってきたことか。

その後、日本でのツアーの際は部屋の一室を東京での滞在場所として貸してくださった。わたしが趣味で俳句をやっていること知ったその人は、「道一本裏に、おもしろい立ち飲み屋があって、俳人の溜まり場みたいだよ」と教えてくださった。

知らない店に一人で入るのは躊躇するもので、ツアーで来日したミュージシャンを連れて一度飲みに行った。外国人を連れ立ったからか、いかにも一見さんの登場という店主の表情を覚えている。それでも都会のど真ん中で、客を放っておいてくれる雰囲気と、俳句愛溢れる店に愛着を得た。

その後、東京滞在はどこかと聞かれる度に神保町です、と応えると、「じゃあ、銀漢亭、知ってるよね」と数人からのその名を聞くことになった。

仲野麻紀『旅する音楽―サックス奏者と音の経験』(せりか書房、2017年)

摩訶不思議な人のご縁を介し、再び銀漢亭に行ったのは、ある年二代目高橋竹山さんとの演奏のために彼女の楽屋へ伺った際、同席していた大西さんに連れられてだった。

俳句の話になったとたん、ぜひ一緒にあるお店に行きましょう、となり、一見さんであったわたしは一気に銀漢亭の仲間に入れていただくこととなった。祝い、別れ、様々な場面で何度かソロでサックスを吹かせていただいた。

心地よすぎる空間。日本に帰る楽しみが増え、結社には入らなかったものの、何度か句会にも参加させていただいた。

フランスへ留学される直前の堀切さんとの出会いも、ここ。その後彼はふらんす俳句会へ参加してくださり、パリ吟行、南仏での演奏会後の句会など、異国にあって俳句の世界の深淵を教示してくださった。

出会いによって生まれる様々な人生の機微。だれかと共有した時間、だれも知られない個人的時間。2011年3月、あの震災の時、わたしはまさしく神保町のある出版社にいた。

夕刻人々が自宅に向かって歩く姿、銀漢亭の店の姿。言葉にならない心の拠り所を俳句に託した時、店主の笑顔、お客たちのほろ酔い顔が、思い出され、そして少しの安堵を与えてくれる。

心から、銀漢亭との出会いに感謝し、この思い出が、わたしを俳句の世界に止まらせてくれると信じている。


【執筆者プロフィール】
仲野麻紀(サックス奏者)
2002年渡仏。フランスを拠点に演奏活動を展開。ふらんす俳句会句友。
https://twitter.com/momo_sax_

Ky「アンソロジーvol.1-月の裏側-」(2018年)
Ky「Désespoir agréable(心地よい絶望)」(2016年)


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