季語【春の夢】
その夢を見たのは、
高校に入学する、少し前のことだった。
僕は海の中にいた。見上げるとそこには、
ゆらゆらと揺れる水面を通して、歪んだ形の太陽が見えた。
時折僕の口から溢れる気泡の音以外は、全くの静寂だった。
より深いところを目指し、僕は潜り続けていった。
海の青は次第に濃縮されていき、
ついには光の届かない、暗闇に包まれた。
しかし、そこで向かう方向を見失うわけにはいかない。
僕は今まで来た方向、つまり海底と思われる場所に向け、
さらに潜り続けていった。
突然、何ともわからない、おそろしい音が聞こえてきた。
獣の咆哮のような、あるいは誰かの怒鳴り声のような。
音は次第に、急激に高まっていき、僕の全身を包み込んだ。
恐怖心の塊のような感情が沸き起こったが、
引き返すわけにはいかないと決めて、僕はそのまま進んで行った。
すると次第に、音は闇の中に消え去っていき、
また新しい静寂が訪れた。漆黒の中を進んでいると、
その先に、小さな光が見えてきた。
近づくにつれて、それは何かの建物から漏れる窓の光だ、
ということがわかってきた。
次の瞬間、僕は真っ白な光の空間の中にいた。
広大の空間のその遥か先に、玉座のようなものが見える。
僕はその玉座に向かって歩いていった。
玉座に座っていたのは、一匹の魚だった。
魚はまっすぐに僕を見つめていたが、
その顔からはどんな表情を読み取ることもできなかった。
魚の言葉が、まっすぐに僕の心に届いた。
「なぜあなたがここにきたのかわかりますか?」
わかりません、と僕は答えた。
魚はしばらく黙っていたが、その沈黙の意図もわからない。
「あなたに、渡すものがあるからです」
ふと見ると、僕の手の中に、美しい首飾りがあった。
いくつも連なる硝子のような球体の中に、
海の碧とも、木々の翠ともつかない色が、ゆっくりと動いていた。
その色の美しさと動きは、僕の目を捉えて離さなかった。
どうしてこれを僕にくれるのですか?と僕は尋ねた。
魚はじっと僕を見つめ、そして答えた。
「それがあなたに、とてもよく似合うからです。」
僕はその首飾りを身につけた。
それはぴたりと僕の首に巻きついた。
まるで元々あった体の一部のように。
魚はそれを見届けると、口から巨大な気泡を一つ放ち、
その泡の影に隠れるようにして消えた。
春の夢魚からもらふ首飾り
井上たま子
※気になる一句から膨らむストーリーを書いていきます。作者の人生、作句の背景とは、全く関係がありません。その点ご理解、ご容赦いただけると幸いです
(小助川駒介)
【執筆者プロフィール】
小助川駒介(こすけがわ・こますけ)
『玉藻』同人。第三回星野立子賞受賞。
星野椿先生主催の超結社句会「二階堂句会」の司会進行係。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2024年4月の火曜日☆阪西敦子のバックナンバー】
>>〔119〕初花や竹の奥より朝日かげ 川端茅舎
>>〔120〕東風を負ひ東風にむかひて相離る 三宅清三郎
>>〔121〕朝寝楽し障子と壺と白ければ 三宅清三郎
>>〔122〕春惜しみつゝ蝶々におくれゆく 三宅清三郎
【2024年4月の水曜日☆杉山久子のバックナンバー】
>>〔1〕麗しき春の七曜またはじまる 山口誓子
>>〔2〕白魚の目に哀願の二つ三つ 田村葉
>>〔3〕無駄足も無駄骨もある苗木市 仲寒蟬
>>〔4〕飛んでゐる蝶にいつより蜂の影 中西夕紀
【2024年4月の木曜日☆小助川駒介のバックナンバー】
>>〔1〕なにがなし善きこと言はな復活祭 野澤節子
>>〔2〕春菊や料理教室みな男 仲谷あきら
【2024年3月の火曜日☆鈴木総史のバックナンバー】
>>〔14〕芹と名がつく賑やかな娘が走る 中村梨々
>>〔15〕一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子
>>〔16〕牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 加藤郁乎
【2024年3月の水曜日☆山岸由佳のバックナンバー】
>>〔5〕唐太の天ぞ垂れたり鰊群来 山口誓子
>>〔6〕少女才長け鶯の鳴き真似する 三橋鷹女
>>〔7〕金色の種まき赤児がささやくよ 寺田京子
【2024年3月の木曜日☆板倉ケンタのバックナンバー】
>>〔6〕祈るべき天と思えど天の病む 石牟礼道子
>>〔7〕吾も春の野に下りたてば紫に 星野立子
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】