神保町に銀漢亭があったころ【第7回】大塚凱

透明

大塚 凱

俳句を読み、書くわたしにとって、俳句そのものにふれている時間よりも、俳句にふれていない時間の方がはるかに大切であると感じる。それは、俳句をよりよく読み、よりよい俳句を書くためにこそ。俳句にかかわる時間以外から可塑的な総体を吸収できることが、人工の知能ではない、人間みずからに許された芸当だからだ。おしなべて言えば、「どのように生きるか」ということは、境涯などといったわかりやすい次元ではなく、もっと高い次元で、おのおのの俳句に関わってくる問題だろうと思う。その点で、銀漢亭はわたしにとってむしろ「俳句にかかわっていない時間」として大きな意味をもっていた。

銀漢亭に勤務するようになったのは今泉礼奈さんの就職に際する入れ替わりでのことだった。学生だったわたしにはそれまであまり縁がなかった場所だったカウンターにしばしば立つこととなり、ビールサーバの注ぎ方やお湯割りの分量などを覚えていった。次第に常連の皆さんとは馴染んでいったけれども、初めての方には、わたしは決してみずから俳句の書き手であることを明かさないようにしていた。わたしはできるだけ透明でいようと心がけていたからだ。店にはさまざまな俳人がいらっしゃるという性質上、俳句観や俳壇に関わるいざこざからカウンター越しに自衛する心の傾きだったのだろう。初めての方にもたまたまわたしが「大塚凱」であることが何かの拍子にバレてしまうこともあったが、できるだけ俳句の書き手ではない存在として振る舞い、皆さんの生活の話に耳を傾けることの快感があった。

閉店間際になると伊那男さんは桂銀淑の曲をかける。そうして表の看板を仕舞ったあとにときおり、ふっと俳句の話をすることがあった。大袈裟かもしれないけれど、「店員」から「書き手」に切り替わるような、そんなひとときだった。だからこそ、俳句観も作風もまるで異なる伊那男さんがわたしのとある句を大いに褒めてくれた、そんな火花のような一瞬を覚えていたいと思う。

【執筆者プロフィール】
大塚 凱(おおつか・がい)
1995年生まれ。「群青」を経て無所属。第7回石田波郷新人賞、第2回円錐新鋭作品賞夢前賞。過去作は『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 』(佐藤文香編著、左右社)等にあります。


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