【書評】鷲巣正徳 句集『ダヴィンチの翼』(私家版、2019年)

振り向かないということ
鷲巣正徳 句集『ダヴィンチの翼』(2019年)

【「ワッシー」とは誰か?】

ワッシーから句集が届いた。手のひらに収まるコンパクトな句集である。表紙には夕暮れの空と飛ぶ鳥と、昼間の鳥の写真が、上下に均等に配置されている。

ページをひらくと、すぐに今井聖(「街」主宰)の愛情あふれる序文があらわれる。

鷲巣正徳さんを「街」の仲間はワッシーと呼んでいる。鷲巣さんと呼ぶ人も中にはいるが、親しい人はみなワッシー。正徳さんと呼ぶ人はほとんどいない。だからここでもワッシーと呼ばせてもらう。このことでもわかるように彼は実に気さく。ユーモアがあっていつもにこにこしている。句は繊細で気持ちにまっすぐ。

鷲巣正徳『ダヴィンチの翼』、1頁

この句集は「私家版」だから、一般に販売されることは想定されていないはずだ。親しい友人や句会を共にした仲間にだけ、送られているのだろう。そして、この句集を手にとった人はみな、今井聖の序文の書き出しを読んで、これ以上的確な人物評はないのではないか、と思うはずだ。

例に漏れず、私もワッシーと呼んでいた。

私よりは30歳以上も年上なのだが、「ワッシーさん」ではなく「ワッシー」だったのだ。その一方で、ワッシーは「ほりきりくん」と呼んでくれていた。

ワッシーはまず小柄だ。ぽっちゃりとしている。そして、ちょっとおじさんくさいメガネをかけている。近頃は見なくなった、大きめのレンズのアレだ。髪型は七三分けぽいけど、なんとなくぼさっとしている。顔が四角くて、細くて小さな目が垂れているのだが、今井聖はそれを「犬系の顔」、それも「品の良い愛玩犬系」であると書いている。

【「いきもの」に注がれるまなざし】

句集を読んでみると、俳句をはじめた時点で老犬を飼っていたらしく、その飼い犬を詠んだ句も多い。しかしより正確にいえば、彼は「生きもの全般」が好きだったのではないか。とくに多いのは牛の句だ。おそらく、幼少期の経験か、あるいは実生活と「牛」は密接に結びついているのだろう。

星月夜どしやと子牛の産まれたる
牛の頭のかくまで堅し青嵐
小春日の突つ張つてゐる牛の腰
牛の喉昇る膨らみ春の水
牛飼の肩を掠めて赤蜻蛉
牛たちの寝息を包みゆく雪夜

一句目は「どしや」という奇をてらいすぎないオノマトペがいい。鈴木牛後には〈羊水ごと仔牛どるんと生れて春〉という句があるが、比べてみると違いがよくわかる。「星月夜」という季語にロマンがないわけではないが、この「まっすぐ」さがワッシーの魅力なのだ。「堅し」「突つ張つて」「膨らみ」というのは、すべて触覚的感覚だ。この「手触り感」が、全編に貫かれている。

三句目は、「豆の木」20号に掲載された10句のうちのひとつで、「生きものたち」というタイトルが付されている。いま、手元にこの雑誌がないのでうろ覚えだが、たしかこのときページ下のエッセイ欄に、さらに数十句の「生きもの」の句が(エッセイの代わりに)並べられていたのではなかったか。

個人的なことをいえば、「豆の木」という雑誌自体も、拙宅にはワッシーから献本を受けていた。だから私は、太田うさぎさんや齋藤朝比古さん、近恵さんといった友人よりも先に、真っ先にワッシーのページを読んでいた。そして、ワッシー元気なんだな、と思ってちょっとうれしくなっていた。

【ALS(筋萎縮性側索硬化症)の発症】

ワッシーと会ったのは、「銀漢亭」のカウンターだった。2011年か、2012年ごろの話である。

ワッシーは、きまって早い時間から銀漢亭のカウンターにいた。早い時間から飲み始めて、少しふらふらしたまま、遅い時間まで飲んでいて、電車を寝過ごして何十分も歩いて帰ったとか、酔っ払って転んじゃったとか、そんな話がワッシーのいないところでも話題によくあがっていた。家が遠いのに、毎日のように飲みに来て、だいじょうぶなのかと心配する声もあった。

そのワッシーが突然、店に来なくなった。ALSになった、という話だった。しかしその後も一年に2回、年賀状と「豆の木」だけは、律儀に送ってくれたのである。

『ダ・ヴィンチの翼』を読むと、前半(2013年まで)の老犬の介護から死までが、後半の自身の病状の進行と重ね合わせられているように読めなくもない。

2015年の句から、〈腹筋で補ふ呼吸花馬酔木〉〈夏暁や一日の命授かりぬ〉〈銀河仰ぐ酸素吸入マスクして〉などの句が見えはじめる。2016年には、〈萎縮せし指に重力春満月〉と〈菫野にキリストの目の降りて来る〉が隣り合わせに収録されている。

ひかり野へ我を連れ行け春の蝶〉は、俳句に携わっていればだいたいの人は知っている折笠美秋(1934年 – 1990年)の〈ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう〉をふまえている。

折笠もまたALS(筋萎縮性側索硬化症)だった。でもさワッシー、「連れ行け」なんて言わなくていいじゃん。きっといまも、辛いし痛いし悲しいこともあるだろうけど、こういうのはワッシーの句らしくないよ。

だいたい、〈夏の星我が精神の不屈なる〉なんて、あまりにそのまんますぎるでしょ。これ、すごく「下手」な句だよ? 〈襟立てて一人降り立つ冬銀河〉って、これもしかして自画像なの? ワッシー知ってる人はみんな、「ぷっ」て吹き出しちゃうけど、それを狙ってるわけ?

【微かな運動感覚が刺激される句】

ALSは、随意筋を直接動かす神経が死滅して、筋肉が動かせなくなる病気である。だからこそ、微かな運動感覚が刺激される句が、とくに後半に多くあるのは、いまのワッシーの「まっすぐ」さなのだ。きっと。

たつぷりと犬と春泥持ち帰る
梅の香の方へ身体の少し浮く
菜の花の中からぬうと犬と人
潮吹いて星と交信する鯨
妻の指より二雫呑む寒の水
朝顔の仄かに呼吸してゐたり
搾乳のバケツより湯気冬菫
かなかなを聞きつつ行けば透明に

なんだよ、ほらワッシー、いい句いっぱいあんじゃんか。はは、涙が少し出てきちゃったよ。「寒の水」はやりすぎだと思うけど、「二雫」なんてリアルすぎるし。「たつぷりと」とか「ぬう」とか、こういう「ゆるふわ系」の句も、ワッシーっぽくて。さすが「品の良い愛玩犬系」だね。

このような繊細な身体感覚は、〈稲刈りし香の鮮しく肺に満つ〉のように前半にもなくはないが、やはり少ない。

ただし、〈夏野行く牧草の香の肺に満ち〉や〈秋冷や腹に確かめ猫の呼気〉のように、「呼吸」をテーマに詠んだ句が前半から見られることは、驚くべきことだろう。もちろんそれ以外にも、〈連弾のやうに秋蝶縺れ合ふ〉という見立ても楽しいし、〈十条のA4出口薔薇買つて〉というただ日常を切り取ってきたような句も「一度限り有効」ではあるけれど、存在感がある。

【まっすぐ前だけを見つめるということ】

そういえば、この句集の巻頭に置かれていたのは、〈振りむけば真白き鳥の立つ青田〉という句だった。つまりこの句集は、来し方を振り返ることからはじまっているのだ。

人と鳥、白と青のコントラスト。どこかにあるんだろうけれど、どこでもない場所。でも、筋肉が動かせなくなって、この句集の作者はもう自分では振り向くことができない、などと思ったら大間違いである。

「振り向けない」のではなく、「振り向かない」のだ。

そして、収録句のトリを飾るのは、〈ダ・ヴィンチの翼を漕いで行く銀河〉。

ワッシーは、いつも「まっすぐ」だ。

【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。

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