おなじ長さの過去と未来よ星月夜 中村加津彦【季語=星月夜 (秋)】


おなじ長さの過去と未来よ星月夜

中村加津彦


〈おなじ長さの過去と未来よ〉の断定と〈星月夜〉の取り合わせが印象的な一句。

〈星月夜〉は美しい言葉だ。字を見ると〈星〉と〈月〉の出ている明るい〈夜〉、と思いたくなってしまう。

ニューヨーク近代美術館が所蔵する、オランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホの「星月夜」には、彼の独特なタッチにより星と三日月が描かれている。まるで生きて動いているかのような夜景だ。

季語の伝える〈星月夜〉は、月は無く、〈星〉が〈月〉のように明るい〈夜〉。〈星月夜〉の言葉そのものがすでに、詩である。

人それぞれの記憶の中に、〈星月夜〉という言葉が呼び起こす夜空はあるだろう。

筆者にとっては、三十年以上前に見た、信州野辺山高原の夜空。星の間に星が限りなく瞬く、文字通り満天の星々に、心も体も吸い込まれるような感覚が今も蘇る。

〈星月夜〉、どこまでも続く星空はどこまでも続く宇宙でもある。

我らが地球からの距離は目に見える星で一番近い金星まででも3962万km、ましてや太陽系外となると一番近い恒星まででも4.243光年と、気が遠くなるほどだが、宇宙規模でみればその距離もほんの僅かなもの。

そしてその星々を見ている、宇宙規模で言えば、ほんの小さな私たち人間が、紛れなく今ここに存在する。

ふっと、ある言葉が頭に浮かんだ。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

これは、フランスの画家で、先に触れたゴッホと共に後期印象派を代表する画家である、ポール・ゴーギャンの大作の題名だ。

すると、掲句の上五中七〈おなじ長さの過去と未来よ〉の語り手は、常に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いに対して思索を続けていて、あるとき、〈おなじ長さの過去と未来よ〉が、その答えの一つとして、語り手の意識に現れた、のではないか、と思えてきた。

あるとき、とは思考が途絶えるとき。思考が途絶えるとは、言い換えると、心の中のおしゃべり、言葉が沈黙すること。

そこは、知識や経験を基にした判断に依らず、あるものをありのままにただ感知する境地で、そこには、理由はわからないが、そうだからそうだとしか言いようがない、という確信とともに、直観、インスピレーション、閃きと呼ばれるものが訪れる。

そこは、人間を始め森羅万象を創り出した、人智の及ばない大きな存在との対話の場なのだ。

掲句でいえば、あるとき、とは、壮大な宇宙を目の前にしたとき。思考が沈黙した意識に、〈おなじ長さの過去と未来よ〉という閃きがやってきた。いやむしろ、閃きを言葉に翻訳してみたら、〈おなじ長さの過去と未来よ〉となったという感覚か。

試しに、その問いと答えを並べてみよう。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

〈おなじ長さの過去と未来よ〉

まるで禅問答のような趣きである。〈おなじ長さの過去と未来よ〉には時間概念への深い洞察が香る。

もとい、ここでは禅問答に倣って、これ以上、この閃きに言語の説明は続けまい。

おなじ長さの過去と未来よ星月夜 

人の閃きと宇宙の煌めき。一句に結晶した人間の存在・意識の不思議と宇宙の神秘とを感じていたい。

 『青い地球』No.346 2019年11月号 所載。

(月野ぽぽな)


🍀 🍀 🍀 季語「星月夜」については、「セポクリ歳時記」もご覧ください。


【執筆者プロフィール】
月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)
1965年長野県生まれ。1992年より米国ニューヨーク市在住。2004年金子兜太主宰「海程」入会、2008年から終刊まで同人。2018年「海原」創刊同人。「豆の木」「青い地球」「ふらっと」同人。星の島句会代表。現代俳句協会会員。2010年第28回現代俳句新人賞、2017年第63回角川俳句賞受賞。
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