国破れて褒め上手
小島健 第4句集『山河健在』
(角川書店、2020年)
タイトルの「山河健在」という言葉から思い浮かべるのは、「山河在り」つまり杜甫の詩『春望』だろう(この句集には〈年酒酌む李白も杜甫も来りけり〉がある)。そこにみずからの名前である「健」と、所属結社である「河」を織り込んでいるのは、作者のユーモアである。本書は、角川俳句叢書「日本の俳人100」シリーズの一冊であるとともに、「河叢書第300号」という記念の句集でもある。
小島健は、1946年生まれ。団塊世代の俳人はけっして少なくないものの、小島健は10代のうちから俳句をはじめているから、句歴でいえばもはや長老クラスだ。第1句集『爽』の刊行が1995年のことで、この年度の俳人協会賞新人賞(第19回)を受賞している。それから約25年の歳月が経過した。この句集の前には、『小島健句集』(ふらんす堂、現代俳句文庫67、2011年)、『自註現代俳句シリーズ 小島健集』(俳人協会、2016年)を上木している。
日本の屋根美しき初詣
夕されば常のこゑなり初鴉
「星」「草」「鳥」「山」「海」の五章から構成されている第四句集は、このような新年の二句からはじまる。「長老」らしい悠然とした一句目が告げるように、世界は美しいという世界観を、この作者は意地でも手放なさい。日々、テレビや新聞には、凄惨な事件や政治の混乱や腐敗で溢れかえっているというのに、いやだからこそ、「日本の屋根」の「美しさ」に注目しなければならない、作者はそう信じてやまないのではないか。
世に疎き男海月に刺されたり
この「世に疎き男」が、はたして作者の自画像かどうかは、読者に委ねられている。句集全体を彩る豊かな自然詠は、作者が一見すると「世に疎き男」であるという錯覚を招きかねないが、しかしここでしっかりと海月にチクリと刺されているのだから、じっさいはそうではない。これが〈世に疎き男海月とただよへり〉などという楽観的な一句であれば、話は逆になる。
作者が第一句集を出してよりの四半世紀は、いわば日本の没落と重なり合っていて、いわば「国破れて」という認識が「山河健在」の向こう側には控えている。
NHK学園俳句講座で専任講師を務め、メディア的露出も少なくないこの作者が、他の作家の句を評するときには、これでもかというほどまでに褒めたてることはよく知られている。恒例の「GOOD!」褒め倒してのち「乾杯!!」。小島健は「花咲爺さん」のごとく周りを華やがせる。褒められて嫌な気分になる人は、よほど悪い性格の持ち主だろう。
かつて丸谷才一は、読んで気持ちのよくなることだけを書くことが、書評家の嗜みだと述べていたことがある。攻撃的な評論とは対極にある「いいところさがし」が上手な人。これが、小島健の疑いようがない一面だ。
かくして、この句集の読み手は「いいところさがし」を迫られる。これは結構なプレッシャーとなる。「褒め上手」の人を褒めることは、プロ棋士に将棋を教えるようなものであり、シェフの前で一皿の味わいについてたっぷりと語ることでもあるからだ。手探りにまずは、こんなところからはじめてみようか。
秋爽の風のきれいな神の山
日の当たる畳を舐めて冬の蝿
注目すべきは、「風」や「山」のような雄大な自然に対する称賛と、蝿や綿虫のような小さな命に注がれる慈愛が、(対照的ではなく)対称的なかたちで重なりあっているということだ。
上にあげた句でいえば「神の山」と「冬の蝿」は、大きさはまったくちがえども、作者の眼前にある〈世界〉の断片として、等しくリスペクトされている。「日本の屋根」も同様だろう。そこにあるのは、世界を美しいものとして感受する作者の〈自己〉である。
妻入れてより輝けり糸桜
妻と買ふ花びら餅よ細雪
このように「妻」もまた、この作者においては、絶対的に美しいものとして描かれる。男にとっての女(結婚していれば「妻」)とは、しばしば語られるように、言動にしても行動にしても大いなる謎そのものいっても差し支えない。それは、なぜ地震が起こり、台風が襲来し、洪水が起こるのかを考えても仕方がないのと同じことで、男にとって女はなぜ喜び、なぜ笑い、そしてなぜ機嫌を損ねるのか理解しがたいところがある。
したがって、このような美学は、〈恐ろしきもの〉を遠ざけるためのまじないのようなものともいえる。みずからに禍いが起こらぬように、自然物(雪月花、そして妻)を褒め称えて、距離をたもつ。慇懃無礼であると思われようと、おそらく作者は構わないと思っている。褒めて、褒めて、褒め倒す。そうすることで〈自己〉の揺るぎない安定性が確保されるのである。
だから、この句集を読んで誰しもが思うのは、「世界ってこんなに美しかったっけ?」だ。
冬眠のさぞ美しき蛇の舌
うつくしく火を焚く僧や春のくれ
花吹雪すなはち詩歌ふぶきけり
蜂の子を食べて銀河を帰りけり
春宵の金箔浮かぶ加賀の酒
山焼くは父焼くごとし大いなる
花街の灯の入りばなを初時雨
このあたりまでくると、幸福感に満ちた世界は、ある種のロマンを獲得しはじめている。オキシトシンが溢れている。
このような多幸的なロマンは、本人の性格もさることながら、「河」という短歌と少なからぬ縁をもつ結社に小島が身を置いていることと、おそらくひとつながりなのだろう。〈家持の詠みたる珠洲の月に酌む〉は、万葉集の〈珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり〉をふまえる。珠洲は能登半島の先っぽだ。ここには「加賀の酒」がふたたび顔を出す。
かつて北前船の往来で賑わった広大な日本海を前にして味わう酒は、傾向でいえば「淡麗辛口」という分類になるが、切れ味鋭いなかにふくよかな米の味わいが感じられそうだ。東京では「加賀鳶」が有名だが(福光屋はアンテナショップが新丸ビルの裏側あたりにもある)、2017年に新設された「農口尚彦研究所」を一度だけ飲んだときの味わいがわたしは忘れられない。伝統ある能登の酒、これもまたロマンなのだ。
更けてよりそろと吉野の濁り酒
では、吉野の酒はどうだろう。能登には海が広がっているが、奈良・吉野がある紀伊半島は山深い。信州などと同様に、発酵=保存文化が根付いている土地だ。つまり、酸の使い方を知っている。古代より蓄積されてきた発酵の知恵とともに作られる酒は、「切れ」などとはほど遠く、旨味のなかにさまざまな香りや味わいと乱反射させる深みのある酒である。
「更けてよりそろと」ということは、宿でのひとり酒、ということになろうか。少なくとも賑やかな酒宴ではない。いつも満面の笑みで「乾杯!」と人を気持ちよくさせてくれる氏の句から透けて見えるのは、案外、孤独なその姿だ。雄大な自然、元気な子供、美しい妻、ひたむきに生きる虫、景に動きを添える鳥、そうしたものを「清く・正しく」とはいわないまでも「うつくしく・楽しく」描くなかで、その自分自身はあくまで冷静だ。〈自己〉はやはり揺るがない。
この「揺るぎなさ」は、たとえば句集のなかごろで「東日本大震災」が起こっても変わらない。岸辺露伴は動かない。小島健は動じない。そう、何があっても存在しつづける「山河」のように。
余震なほみちのく春を吹雪きけり
蟻穴を出でて瓦礫の山登る
この「なほ」が、作者の「揺るがなさ」を、さらに揺るがないものにしている。大地震があっても「なほ」、春の吹雪はやむことがないように、作者自身も「なほ」、揺らぐことはない。というよりも、このような自然のエネルギーは、俳句の世界のなかでは、折込済み、了解済みであることを、作者は十分に知っている。ひどく悲しんでみたところで、それは一時の「見せかけ」、つまり一種の偽善なのではないかと問いただす厳しさを、作者はけっして忘れていないのだ。
島々は津波に痩せて昼の虫
塩害に伐らるる杉も秋の風
所詮、人間ごときが自然のやることを前にじたばたしてみたところで、何も変わらない――このような考え方は、ある意味で残酷だ。しかし、作者の目線は「変わったこと」ではなく、「変わらないもの」のほうにいく。ここでは「昼の虫」や「秋の風」がそうである。さきほどの「春の吹雪」と同様に、津波で島が痩せても「なほ」、塩害で杉が切り倒されても「なほ」秋風が吹く、というところにこの作者のまなざしの特徴がある。
ざりがにの骸を白く秋の風
この句は先ほどの「秋の風」と発想の上でも語形の上でも近似している。近似しているから悪いということではなく、これが作者のまなざしの基本的なあり方なのである。ざりがにが死に果て、白くなっても「なほ」、秋風が吹く。「変わらないもの」と「変わるもの」。
変わるものが変わっても「なほ」、変わらないものは変わらない。このようなトーロジカルな論理のなかで、山河は「健在」でありつづける。
国破れて「なほ」山河在り。こうした美学を下から支えているのは、おそらくこの句集でもっともリスペクトされている歌人、西行ではないだろうか。
花どきの枕頭にあり山家集
西行のこゑの暮れゆく花明り
止り木に旅を飢ゑをり西行忌
日の暮れは道細くなる西行忌
俳句は和歌ではないから、あわれだ、悲しい、などと直裁な表現をするゆとりは基本的にはないにしても、花や月をこよなく愛した大歌人を範=師として、小島健の美しくも儚い世界像がつくりあげられているように思われる。それは各章の題を「星」「草」「鳥」「山」「海」というシンプルな構成にしたこととも根底ではつながっているだろう。これらのサブテーマとなっているのは、「夕」「闇」「やはらか」「青」などであろうか。
最後にわたしが集中を一読して、ただちに忘れられなくなった句を10句に絞って挙げておこう。すでに知られた句も含まれてはいる。
はまぐりの肉の中より白き蟹
冬眠のさぞ美しき蛇の舌
流れ着くものをまたいで都鳥
捨てられぬ本動かして年の暮
少年をたくさん招き雛祭
ペリカンの水噛みこぼす大暑かな
牡蠣啜り心身やはらかくなりぬ
蚯蚓捨て葵祭のはじまりぬ
ふるさとの人老いやすし稲の花
秋深し子らの名前を寝言妻
旅吟にも佳句は多いのだが、それほど全国を旅して回ったわけではない私のようなものにとっては、このような生活詠や生き物の生態を描いた句により共感を覚える。とくに「都鳥」や「葵祭」の句は、想像だけではなかなかできない句だろう。ペリカンの句は「噛みこぼす」という動きがいい。造語を好まない俳句作家もいるなかで、「寝言妻」はユーモアと愛に溢れている。妻の寝言に少し悩まされている健さんを想像すると、なんだかそれも楽しい。それにしても知らない男の名前でなくて、よかった、よかった。
上でも述べたとおり、この句集には「乾杯!!」の文句で知られる作者よろしく、酒の句も多い。今年75歳になる作者だが、その衰え知らずの酒量を心配するにはまったく及ばない。あいかわらずその姿は若々しく、「老い」などをまったく感じさせないのである。「長老」と書いたのは、的外れだからこそジョーク。年齢を詐称しているのではないかと思うほどだ。わたしのなかでは、今井聖、小島健、木暮陶句郎の三人に年齢詐称疑惑が起こっている。
自身も「若さ」には自覚があるようで、実際に、郷里に帰って友人などに会うと「ふるさとの人老いやすし」と感じてしまうのだろう。この年齢で上梓する句集で、「病気」も「老い」もまったく出てこないというのは、ただただ驚くほかはない。
昨年、後藤比奈夫氏が103歳で天寿を全うされたが、わたしはひそやかにこの作者がその記録を塗り替えるのではないかと思っている。仮に105歳が人生のリミットであるとすれば、作者にはあと30年も時間が残されている。30年経っても私自身がこの句集を上梓した作者の年齢に追いつくことはできないのだが、多少の誤差は免じていただき、そのときはぜひ一緒に、「乾杯!!」していただきたいと思っている。
そのときの酒は何がいいだろう。
加賀の酒か吉野の酒かと悩んだが、やはり気取らないデイリータイプの赤ワインがいい。
【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】