神保町に銀漢亭があったころ【第127回】鳥居真里子


とある酒場とちりめんじゃこ

鳥居真里子(「門」主宰)


「銀漢亭」の店主、伊藤伊那男さんと初めてお会いしたのは高円寺の「庵」というお店。店主はやはり俳人の麻里伊さん。数十年も前のことである。何かの集まりの二次会の席だったと記憶している。隣席の伊那男さんとどちらからともなく会話が始まった。料理好きで出身は長野県、若かりし頃は証券会社に勤務していたことなどなど、伊那男さんの横顔にほんの少し触れて親近感を覚えた。長野は私の母の故郷であり、その証券会社に私も勤務経験があったからだ。何より、伊那男さんの実直であたたかな人柄がごく自然に私の気持ちを和ませてくれたのではないかと思う。

その後、料理好きの伊那男さんが満を持していたかのように「銀漢亭」をオープン。店主のセンスの良さがさりげなく内装に反映された、肩の凝らない居心地の良い空間。そして店主直々の料理がまた格別。手作りの「ちりめんじゃこ」は絶品中の絶品、持ち帰りの無理をお願いしたのも一再ではなかった。

十六年程前、伊那男さんと一年間「俳句研究」の覆面対談の機会を頂いた。何冊かの句集を挙げて、その作品評を述べ合うというもの。これがまた驚くほど違っていてなかなか嚙み合わない。「ぜんぜん、わかりません」と伊那男さん。「どうして、わからないのですか」と私。団塊世代どうしとはいえ俳句観はまったくの別もの。それもまた良し、楽しい思い出となった。病を得た奥様の看病に加え、お店の経営、俳句の仕事と重なるなか、常に生き生きと言葉を発する伊那男さんの姿を眩しく見ていたあの時間が懐かしく脳裡に蘇る。

そんなご縁もあって、伊那男さんが主宰を務める俳誌『銀漢』の編集室を拝借して月に一度、仲間うちの句会を開いていた。その名も「銀の会」。句会が終わると一同、きまって編集室隣りの「銀漢亭」へ。美味しいお酒とお料理、そして店主の笑顔が俳句談義に咲く花をいっそう賑やかに、華やかなものにしてくれたのは言うまでもない。 さよなら「銀漢亭」。ありがとう「銀漢亭」。


【執筆者プロフィール】
鳥居真里子(とりいまりこ)
一九四八年東京生。一九八七年、「門」創刊と共に入会。鈴木鷹夫に師事。一九九七年、坪内稔典代表「船団」に入会。現在「門」主宰。句集に『鼬の姉妹』『月の茗荷』。第十二回俳壇賞。第八回中新田俳句大賞受賞。



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