神保町に銀漢亭があったころ

神保町に銀漢亭があったころ【第108回】麻里伊

立春にはシャンパン

麻里伊(「や」同人)

久しぶりに行く銀漢亭で、久しぶりに会うUさんと中村十朗さんとで待ち合わせたのは、去年の2月4日だった。

その日、意外や客はまばらで三人でカウンターに並んだ。

寒い日だった。

外を眺めていると、ふっと今日は立春だったことに気づいた。

そう思うと空気も違って見える。窓際には春めいた黄色い花が綺麗に活けてあり、ずっと遠いところで春が生まれてると思い始めると急にうきうきとした気分になった。

ビールを数杯飲み、Uさんがそろそろ白ワインでも行きますか?とおっしゃる。

なんと今日は立春なんですよ、だったらシャンパンの気分かな~、シャンパンですよね~、などと言ってみた。

あ、シャンパン。そうしますかね…、伊那男さん、ひとつシャンパンでもお願いしますか?とUさんは白ワインぐらいのつもりで頼んでくれた。

伊那男さんもOK!と言ってさっと取りに行き、まずはカウンターに瓶を置いた。チラと目の端に見えたのはヴーヴ・クリコだ。

Uさんにこれでいいか問いかけようとした途端、伊那男さんが手際良くスポンと抜いた。

居合わせた人数分のグラスが並べられ、カンパイとなった。

スパーリングワインと言った方が良かったか…、メニューにはこれしかないのだろうか…ともろもろが頭を巡った。

久しぶりのヴーヴ・クリコ! 立春のヴーヴ・クリコ! 美味しい~!

もろもろのことは頭からすっかり消えていた。

立春には、ブーヴ・クリコ! お正月も?

伊那男さんとはお店をやられる前に出会っている。

私が結社から独立、仲間と「や」を創刊してまもなく総合誌に初めて自作が掲載されたとき、伊那男さんから思いがけない「おめでとう!」の葉書が届いた。

高円寺の阿波踊りの夜、奥様と二人で見学されているのに遭遇した。宵闇の灯りに、奥様はとても綺麗な方だった。

銀漢亭を開店されてまもなく、伊那男さんの奥様が亡くなられたと人づてに聞いた。即お悔やみに出向いた。すると不思議なことに奥様が手伝われていたので呆然とした。私の早合点だと思ったが、内容が内容だけに確かめることも出来なく少し飲んで帰った。

結局は店を手伝われていたのは、スタイルもすらりとして似ていると言われたご親戚の方だったようだ。それが判るまでしばらくお悔やみを言わず仕舞いで失礼をしてしまった。

そんなに頻繁に行く事はなかった銀漢亭だが、珍しくシャンパンを飲んだ日から一週間後に伺うこととなった。

伊那男さんと会うと直ぐ、この前は上手く行ったね!とウインクをされた。いやウインクは言い過ぎかも知れない、そんな茶目っ気たっぷりの顏だった。私ももちろん、ホント、上手くいきましたね!と答えた。

伊那男さんのこんなところも好きだなあ~と改めて思った。

あれから数ヶ月後にこの銀漢亭が閉店になるとは、思いもよらぬことだった…。


【執筆者プロフィール】
麻里伊(まりい)
「や」同人。



【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 「野崎海芋のたべる歳時記」蕪のクリームスープ
  2. 【読者参加型】コンゲツノハイクを読む【2023年8月分】
  3. 神保町に銀漢亭があったころ【第45回】西村厚子
  4. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第18回】塩竈と佐藤鬼房
  5. 神保町に銀漢亭があったころ【第126回】坪井研治
  6. 【投稿募集】アゴラ・ポクリット
  7. 【#20】ミュンヘンの冬と初夏
  8. 【結社推薦句】コンゲツノハイク【2022年10月分】

おすすめ記事

  1. 【夏の季語】水中花/酒中花
  2. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第20回】遠賀川と野見山朱鳥
  3. 底紅や黙つてあがる母の家 千葉皓史【季語=底紅(秋)】
  4. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第22回】東山と後藤比奈夫
  5. 【春の季語】三椏の花
  6. 人垣に春節の龍起ち上がる 小路紫峡【季語=春節(春)】
  7. 【夏の季語】白玉
  8. 土器に浸みゆく神酒や初詣 高浜年尾【季語=初詣(新年)】
  9. 紐の束を括るも紐や蚯蚓鳴く 澤好摩【季語=蚯蚓鳴く(秋)】
  10. 神保町に銀漢亭があったころ【第7回】大塚凱

Pickup記事

  1. また一人看取の汗を拭いて来し 三島広志【季語=汗(夏)】
  2. 両の眼の玉は飴玉盛夏過ぐ 三橋敏雄【季語=盛夏(夏)】
  3. 「野崎海芋のたべる歳時記」苺のシャンティイ風
  4. 倉田有希の「写真と俳句チャレンジ」【第7回】レンズ交換式カメラについて
  5. 冴返るまだ粗玉の詩句抱き 上田五千石【季語=冴返る(春)】
  6. 【夏の季語】入梅
  7. 【冬の季語】寒
  8. 春泥を帰りて猫の深眠り 藤嶋務【季語=春泥(春)】
  9. 【冬の季語】寒椿
  10. 【結社推薦句】コンゲツノハイク【2022年10月分】
PAGE TOP