神保町に銀漢亭があったころ

神保町に銀漢亭があったころ【第17回】太田うさぎ

ナスとカマキリ

太田うさぎ(「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員)

客として銀漢亭に長らく通った挙句、最後の数年は週一回ほど店を手伝った。飲食店でのアルバイト経験のない身には興味の湧く仕事だったし、ちょっとママ気分を味わってみたい、という秘めた下心もなくはなかった。

が、実際に働き始めると、開店前の準備や洗い物と言った肉体労働が結構な部分を占めており、ワンオペならぬツーオペ店の光と闇をまざまざと味わったのであった、というのはもちろん誇張、楽しい月日でした。

カウンターに面した黒板にはその日その日の酒肴を書いた短冊が貼ってある。ここに“若井新一さんの茄子”がお目見えすると、ああ今年も銀漢亭に夏が来たと思ったものだ。

新潟で農業を営んでおられる若井さん(「香雨」同人)が注文に応じて送って来るのだが、水茄子系の丸みを帯びたお姿は艶やかで非常に美味。

これが大きな段ボールで届くことはアルバイトをして初めて知った。箱いっぱいに詰まった茄子を袋に小分けするのも開店準備のうち。お駄賃に一袋貰ったりも。

(これが若井新一さんから届いた茄子の「塩揉み」! 美味!)

茄子はシンプルに塩揉みと焼き茄子になる。塩揉みは尻に十文字の切れ目を入れて塩を振りきゅっきゅっと揉んだもの。実が程よく締まっているからヘタレない。焼き茄子は皮が黒焦げになるまで網焼きにして皮を剝く、実は手の掛かる料理だ。

真夏、狭い厨房で汗みずくになって茄子を焼く伊那男さんの姿をよく覚えている。アルバイトはその背中をすり抜けて奥から床掃除用のモップと箒を取り出すのである。

常連客で賑わう店だったけれど、遠来の固定客もまた少なくなかった。東京に来たからと言ってわざわざ顔を出してくれるとはまた嬉しからずや。

茄子のことを書きながらふと心に浮かんだ笹下蟷螂子(ささかとうろうし)さんもそんな一人だ。

蟷螂子さんは「天為」同人だったから、天野小石ママ目当てだったかもしれない。それがあいにくと私が当番の夜に当たることもあったようだ。

少し遅い時間にふらりといらしたいつかのこと。夏季限定メニューだからとお勧めした茄子の塩揉みを大変お気に召された。

そしてその夜、蟷螂子さんなんと、俳句の話を熱心にしながら塩揉み茄子ばかり三皿平らげたのだった。他のメニューやせめて焼き茄子に変えては、と提案しても耳も貸さない。

二度目のお替わりを運ぶときには、”生贄の茄子を舌なめずりして待つカマキリ”という妄想図が私の脳裏にすっかり焼き付いてしまった。

尚、蟷螂子さんは華奢な体格をカッコイイ服に包んだ、佇まいにどこか翳りのある物静かな方である。あの晩からほどなくして上梓された句集『忘れ雪』にはこんな句が並ぶ。

 初花に雨のしづくは重すぎて
 ひとときの夕日はなやぐ竹落葉
 ふるさとを月より遠く思ふとき
 夜焚火や傷あらぬなき漁師の手
 去年今年海より深く眠る母

秋に入り実が硬くなった茄子はカレーの具になる。茄子カレーとパン。赤ワインにも合う人気メニューだった。

店頭で茄子を見るにつけうら寂しき今日この頃なのである。

(こちらが「焼き茄子」。これまた日本酒に合う!)

【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』



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