笠原小百合の「競馬的名句アルバム」

笠原小百合の「競馬的名句アルバム」【第8回】2003年 天皇賞・秋 シンボリクリスエス


【第8回】
パドック派の戯言
(2003年 天皇賞・秋 シンボリクリスエス)


競馬を始めた、もしくは始めようとしている人は専門用語の多さに尻込みしてしまうことが多い。競馬を嗜む身としては一般的な名称だと思っていても相手に通じず、いざ説明するとなるとこれが意外と難しい。俳句の「切れ」を説明するようなものだろうか。いかに自分が便利な言葉に凭れ、頼っているのかを痛感する。今回は数ある競馬の専門用語の中から「パドック」にまつわる話をしていきたい。

競馬中継で、競走馬が人に曳かれて歩いている様子を見たことはないだろうか。レースの30分ほど前から出走馬が一列に並んでぐるぐると周回する。その場所を「パドック」と言う。日本語としては「下見所」と言い、その名の通り出走馬の下見をする場所である。

事前の情報や競馬新聞のみで馬券の予想をする人もいるが、やはり競馬は生き物を相手にする競技であるため、その日のコンディションが非常に重要になってくる。レース当日の出走馬の様子を確認するための場所。それがパドックなのである。

パドックに行く目的は、何も馬券のためだけではない。美しい競走馬の姿を間近で見られる絶好のチャンス。競馬ファンの中でも特に競走馬のファンはパドックを非常に大切にしている。そして何を隠そう、筆者もパドック派の競馬ファン。時にはレースは一切見ずに、一日中パドックの最前列に居たこともある。パドックとはそれほど魅力的な場所なのだ。

そんなパドックでの忘れられない出来事がある。2003年の天皇賞・秋。当時、東京競馬場から徒歩15分の場所に住んでいた筆者はいつものようにパドックの最前列を陣取り、天皇賞秋の出走馬の登場を待ち続けていた。

前走フランスのG1で2着となった逃げ馬ローエングリン。

春に香港のG1を勝利、福永祐一騎手騎乗のエイシンプレストン。

芝もダートもお任せあれ、一昨年の覇者アグネスデジタル。

そして、豪華メンバー18頭が揃った天皇賞・秋の1番人気、シンボリクリスエス。

長年パドックに張り付いていると、競走馬から溢れ出る自信を肌で感じることがある。その1頭がシンボリクリスエスであった。

18頭中、明らかに1頭だけオーラが違う。周回するごとに力強く、漆黒の馬体が輝いて見えた。大勢の観客に動じることなく、落ち着き払っている様子は頼もしさすら感じる。筆者の目の前を通り過ぎる時、確かに目が合った。と思った瞬間、脳内に言葉が降りて来る。

「絶対、勝つよ」

それはシンボリクリスエスからのメッセージだったのか、筆者の思い込みだったのか。恐らく後者であろう。しかし、前者であると信じたい、思っていたい。なぜなら、言葉通りにシンボリクリスエスが見事1着。優勝したのだ。

勝ち馬自身に勝利を教えて貰ったのだから、馬券的中、さぞかし大儲けしたことだろうと思われるかもしれないが、筆者の当時のパドック後の心情を的確に言い得ている句がある。

鶏頭花すぐに答が出て迷ふ  西川火尖

そう、迷ってしまったのだ。素直に信じていれば良かった、と今でも後悔している。それでも、シンボリクリスエスとの邂逅は今でも奇跡のような大切な思い出である。

競馬場では時折、このような不思議な体験が出来る。だから、競馬は辞められないのである。


【執筆者プロフィール】
笠原小百合(かさはら・さゆり)
1984年生まれ、栃木県出身。埼玉県在住。「田」俳句会所属。俳人協会会員。オグリキャップ以来の競馬ファン。引退馬支援活動にも参加する馬好き。ブログ「俳句とみる夢」を運営中。


【笠原小百合の「競馬的名句アルバム」バックナンバー】

【第1回】春泥を突き抜けた黄金の船(2012年皐月賞・ゴールドシップ)
【第2回】馬が馬でなくなるとき(1993年七夕賞・ツインターボ)
【第3回】薔薇の蕾のひらくとき(2010年神戸新聞杯・ローズキングダム)
【第4回】女王の愛した競馬(2010年/2011年エリザベス女王杯・スノーフェアリー)
【第5回】愛された暴君(2013年有馬記念・オルフェーヴル)
【第6回】母の名を継ぐ者(2018年フェブラリーステークス・ノンコノユメ)
【第7回】虹はまだ消えず(2018年 天皇賞(春)・レインボーライン)


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