神保町に銀漢亭があったころ【第4回】菊田一平

あの夜のこと

菊田一平(「唐変木」代表)

現役時代、銀漢亭には三日と置かずに通った。立ち飲みという気軽さと伊那男さんの料理の美味さ、更には亡くなった光代さんの素人っぽい接客。それらが嬉しくて口開けの一杯は銀漢亭と決めて台所感覚でおじゃました。

今でこそ俳人の溜り場が代名詞のように定着したが、当初の銀漢亭は神保町界隈で働く普通のサラリーマンが客の大半だった。「本の町の神保町」の名が示す通り、出版業やそれに関連する業界の人たちも何人かいて、飲みながら情報交換ができるのが魅力でもあった。それが徐々に俳人の数が増えていき、歩行者天国のように賑やかな「湯島句会」や各種イベントに参加させていただいたり、そこで知り合ったメンバーたちと定例の「超結社の会」や、「勉強会」を開くことが出来た。まさに余得のような俳縁だった。

思い出を上げればきりがないのだが、極めつけは2011年3月11日の東日本大震災の夜のことだ。伊那男さんの「銀漢亭日録」は、その日のことを「14時26分激、激震に恐怖を感じる。電話など通ぜず。店は休みとする。淳子、一平、小川洋うさぎさんが避難してくる。電車が動かず酒盛りをして待機。最後句会。」とある。

地震発生後、職場のテレビ画面に馴染みの気仙沼湾が映し出され、湾の深奥部に突き出た岬の上を、押し寄せる波が瞬く間に乗り越え、港に停泊している漁船やカーフェリーが舫を解かれたように湾内を漂流し始める景を見たときには唖然とした。酒を飲み、句会をしながら電車の開通を待ったが、頭の中ではテレビ画面の映像が何度も脳裏をよぎる。わずかな救いは、たった一回通じた携帯電話で、弟が「全員無事!」と報告してくれたこと。まさかその後に倒壊して流れた備蓄の重油タンクに引火して気仙沼が火の海になったとは翌日のニュースを見るまで知らなかった。

その後、銀漢亭のカウンターに「義援金の壺」が置かれ、気仙沼俳句会事務局へ多大なご支援をいただいた。

17年間の銀漢亭に沢山のことを学び、沢山の俳縁をいただいた。深く深く感謝したい。


【執筆者プロフィール】
菊田一平(きくた・いっぺい)
1951年宮城県気仙沼市生まれ。「や」「晨」「蒐」各同人、「唐変木」代表。俳人協会会員。


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