神保町に銀漢亭があったころ【第53回】しなだしん

伝説の句会

しなだしん(「青山」主宰)

❝ 神保町の白山通りから路地を入った裏通り。何軒かの飲食店や古本店、中古レコードショップなどが集まった昔ながらの雰囲気が何となく残る界隈に、スタンドバー「銀漢亭」はある。店頭のウッドデッキには、長イスが置いてある。❞ ~「サントリーグルメガイド8月号」より抜粋~

これは、ある冊子の裏表紙の銀漢亭の紹介である。白山通りから銀漢亭へ向う感覚がよみがえってくるようだ。

この「冊子」というのは、銀漢亭で開かれていた、伝説の句会「湯島句会」の会報である。

「湯島句会」句会報(冊子)の裏表紙

筆者の手元には、この冊子が二十数冊ある。第17回から第50回まで。ところどころ抜けているのは、紛失したか、出席していなかった回か。

この冊子、手作り感は否めないものの、句会の評を中心とした掲載内容は、もう結社誌のレベルである。

「湯島句会」は、伊藤伊那男さんの主宰誌「銀漢」の方を中心に、結社を超えた俳人が参加していた句会。実際には結社「銀漢」は2011年創刊だから、伊那男さんを慕う俳人たちの句会、ということになろうか。

筆者がこの句会の参加したのは、第19回の平成21年(2009年)7月から、最終第66回(2013年7月)まで。

どういう経緯で参加することになったのかはよく覚えていないが、2009年7月は、伊那男さんの句集『知命なほ』が出版され、出版記念パーティーが開かれた月で、筆者もこのパーティーに参加している。この流れで誘っていただいた、そんな流れだったようにも思う。

伝説の「湯島句会」は、とにかく凄まじい句会だった。

筆者が参加した2009年7月時分は、リアルな席題の句会で、18時過ぎに銀漢亭にゆくと、席題が3題出ており、参加者はその場で作句し、雑詠を合せて5句を投句。

参加者で手分けして清記。これを幹事の方々がコンビニのコピーに走る。参加者はここで乾杯して一息、談笑を交す。清記のコピーが回ってくると誰もが黙し、一心不乱に選句する。

特選含めた選句を提出し、これを幹事の披講者が大声で披講する。作者も大声で名乗りをあげる、と云った具合。

この頃すでに、参加者は50名以上になっており、会場である銀漢亭は、人で溢れかえっていた。披講も名乗りも大声なのはこのためで、選句はほとんどの参加者が立ったままで行い、店の前の路上で選句するものもあった。

(筆者がはじめて参加した第19回の会報)

凄まじさは、句会のあとの飲み会も。

湯島句会の参加費は破格の3,000円で、飲み放題、料理食べ放題。歓談のボルテージはあがるが、講評がはじまると、聞き逃すまいと参加者は耳を澄ます。それもその筈、参加の俳人は有名有力俳人たちである。句会が終るのは21時~22時だったように思う。

句会の後も飲み会は続き、銀漢亭閉店のあとの近所の中華屋での2次会は、当然、日を跨ぐのだった。

その後、2010年の8月(第33回)からは、メールでの事前投句制となり、少しずつ変化してゆき、参加の俳人は入替りつつ、増えていった。

会報の冊子は、第50号(2012年/平成24年)で終り、第51号の会報からはPDFでのメール配布となり、最終回第66回まで続いた。最終回の会報によれば、参加者は140名ほどを数えた。

このカオスのような「湯島句会」の参加は、筆者とって一つの時代のエポックとなっている。


【執筆者プロフィール】
しなだしん(しなだ・しん)
1962年、新潟県柏崎市生まれ。令和2年9月「青山(せいざん)」継承主宰。句集に『夜明』『隼の胸』(ふらんす堂)。「塔の会」幹事。俳人協会幹事。東京在住。



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