神保町に銀漢亭があったころ【第89回】広渡詩乃

銀漢亭の一皿、俳人の味。

広渡詩乃(「栞」同人)

銀漢亭に初めて伺ったのは、十数年前。当時、二十数年務めた銀座の広告会社から神保町に移り、フリーランスで仕事を始めた頃。俳句結社の先輩から伊那男さんのお店へお礼に行くので神保町に居るなら付き合ってくれないか、と声をかけられた。

伊那男さんにお目にかかるのは、もちろん初めて。カウンター越しにあの大きな瞳でまっすぐに見つめられ、とても気さくにお話いただいた。更には、毎月1回、ここで超結社の句会があるのでご一緒にどうですか、とお誘いをいただいたのだ。先輩も乗り気で、私も仕事場からすぐ近く、帰りに寄れるのでいいかな、と軽い気持ちで翌月から参加することになった。やがて先輩は間遠になり、私は仕事の都合などで休みつつも、十年以上も続くことになるとは・・・。

そのヒミツは、もちろん句会の面白さ。結社の句会と違い、歯に衣着せぬ句評にはじめは驚いたが、なるほどと納得することも多く、おおいに刺激を受けた。あともう一つ、こちらの方がお目当てだったかも。それは伊那男さんの美味しい手料理!成績はさんざん、名乗りの声なし、と言う酷いときでも、卓の目の前に、大皿のお刺身や銘々の小鉢、湯気の上がったお鍋がどーん!と載れば、ああ、幸せ!あら不思議、本来下戸の私でもビールや日本酒のグラスがすすむのだ。

旬の食材を生かし、いわゆるプロの味ではなく家庭的なのだが、一味違う。まさに、俳人の手料理。伊那男さんのお人柄もあり、全国から生きのいい素材が到来する。俳人・若井新一さんの浅漬けでも煮てもおいしいナスや、気仙沼からの牡蠣や秋刀魚。秋刀魚もお刺身や味噌漬けなど一工夫あるのが、伊那男流。食いしん坊の主婦としては毎回、どうやって作るの?と質問を抑えられなかった。他にも、冬なら鰤の粕煮、夏なら鮎の山椒煮。粕汁のあの味も銀漢亭だけの味。沖縄土産の海ぶどうや、近江土産の鮒ずしが並ぶこともあった。また、特筆すべきが、伊那男先生自ら手作りのからすみ。レシピを伺うと、鰡の卵を塩漬け1週間、日本酒に漬けて1週間、それを天日干しして・・・こ、これは真似できない!感服。美しく飴色に仕上がったからすみの一切れを、薄切りにした大根に挟み、恭しくいただく。至福の一瞬。

数々の美味の中でも汁物、煮物がすごく美味しい。だし汁が違うのだ。実は、今は亡き京都生まれの奥様のおだしの取り方、忘れ形見のお味とのことだった・・・。

銀漢亭でいただいた数々のお料理。あのお心のこもったおいしい手料理が食べられないのが残念である。「銀漢亭の一皿、俳人の味」というタイトルで、ぜひレシピ公開を!


【執筆者プロフィール】
広渡詩乃(ひろわたり・しの)
昭和31年東京都生まれ。昭和60年「朝」入会、岡本眸に師事。平成28年「朝」終刊後、29年「栞」創刊、同人。松岡隆子に師事。句集『春風の量』、随筆『師の句を訪ねて―岡本眸その作品と軌跡』。俳人協会幹事。



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