【連載】漢字という親を棄てられない私たち/井上泰至【第3回】


【連載】
漢字という親を棄てられない私たち/井上泰至


【第3回】
男なのに、なぜ「虚子」「秋櫻子」「誓子」?


 予定通りなら、11月16日(水)22:00から、NHK「歴史探偵」で正岡子規が特集され、スタジオで私が解説をした映像が流されるはずである。司会は俳優の佐藤二朗さん。この連載で俳号の問題を考えているので、ふといい俳号を思いついてしまった。「二朧」。名前をもじるのは、俳号ではよくある手である。

 高浜清は「虚子」、山口新比古(ちかひこ)は「誓子」、そして高橋行雄は「鷹羽狩行」。俳はふざけ、ユーモアの意味だから、平凡な名前を逆手にとるのである。「「二つの朧」って何?」と聞かれれば、この名前、一見カッコイイが、実は二朗さん、目が細くって表情が「朧」だし、お酒好きなので頭の中も時々「朧」だから、という落ちがつくわけである。

 しかし、「虚子」「秋櫻子」「誓子」って、女性でもないのに、なんで「子」をつけるの?という、漢詩文の文化から遠ざかった現代人には当然の疑問が沸き起こってくる。実は漢文世界では、「子(シ)」は、学問・人格のすぐれた者の名に付ける敬称だった。「孔子」「老子」「朱子」と言った中国の影響力の大きかった学問を修めた人たちを想起すればよい。「虚子」以下の俳号は、これのパロディーなのである。

   姓名は何子が号は案山子哉   蕪村

 立派な学問などやらず、俳句の遊びに熱中している人間が、「子」を名乗る滑稽こそ俳句のセンスである。俳句雑誌『ホトトギス』に連載された『吾輩は猫である』の登場人物など、漱石自身を当て込んだ苦沙弥先生、美学者迷亭等々、主治医で哲学者の甘木先生は縦書きにすれば某先生と読める。権威のある号の世界を、反転した可笑しさに溢れるが、反転は反逆ではない。

 俳句仲間も、孔子の弟子たち同様、賢人サークルの匂いがする。子規の句会は、漢学書生風に参加者は平等に互選を行い、句と選について議論を行った。兄貴分の子規も「先生」とは呼ばず、「君」に近い感覚で「子規子」と呼んだ。はては『論語』のような真理の書物を、大学のゼミよろしく読んで議論する「会読」の方法まで俳句に持ち込み、「蕪村句集講義」という座談会を、「ホトトギス」で連載している。「子」は、漢詩文世界の同好の士の感覚を根底に持ちつつ戯れた呼び名だったのである。

 二三子や時雨るる心親しめり    虚子

 二三子や時雨るる心親しめりと   京極杞陽

「二三子」の出典は、『論語』述而の「子曰く、二三子我を以て隠せりと為すか。吾は隠す無きのみ。吾行うとして与(とも)にせざる者無し。是れ丘なり」によるのだろう。かいつまんで言えばこうである。孔子先生がおっしゃった、「あなたたちは私が(学問について)隠しごとをしているというのですか。私は隠すことなどない。私にはあなたたちと共に行わないことなどありません。それが私なのだ。――孔子も、子規子も、虚子も共に学ぶ仲間なのだ。


【執筆者プロフィール】
井上泰至(いのうえ・やすし)
1961年、京都市生まれ。上智大学文学部国文学科卒業。同大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。現在、防衛大学校教授。著書に『子規の内なる江戸 俳句革新というドラマ』(角川学芸出版、2011年)『近代俳句の誕生ーー子規から虚子へ』(日本伝統俳句協会、2015年)『俳句のルール』(編著、笠間書院、2017年)『正岡子規ーー俳句あり則ち日本文学あり』(ミネルヴァ書房、2020年)『俳句がよくわかる文法講座: 詠む・読むためのヒント』(共著、文学通信、2022年)『山本健吉ーー芸術の発達は不断の個性の消滅』(ミネルヴァ書房、2022年)など。


【バックナンバー】

第1回  俳句と〈漢文脈〉
第2回  句会は漢詩から生まれた①


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

horikiri