異論があるかもしれないが、私はこの句からたくさんの花よりも、まずはせいぜい、ひとつかふたつほどの花を思い浮かべる。つまり、ここでの「あぢさゐ」は、ひとまずは小さな花弁の色合いのグラデーションのことを指している。しかしそこから今度は、紫陽花のつづく長い道のような大きな景が見えてくる。その二重性が、まるで言葉の「残像」のようにも感じられてくる一句だ。『残像』(2011)所収。(堀切克洋)
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】
さうらしく見えてだんだん鴉の巣…
一つづつ包むパイ皮春惜しむ 代…
【春の季語=晩春(4月)】春惜…
たくさんのお尻の並ぶ汐干かな …
わが家の見えて日ねもす蝶の野良…
【春の季語=初春〜晩春(2月〜…