象の足しづかに上る重たさよ 島津亮


象の足しづかに上る重たさよ

島津亮
(『紅葉寺境内』昭和27年)

「なぜ俳句を書くのか?」と聞かれることがあるだろう。よくある質問だが、あまり好きな質問ではない。この類の問いは突き詰めると「なぜ生きるのか?」とすり替わってしまうこともあり、はっきり言って不毛、愚問であると思っている。

では、「なぜそういった俳句を書くのか?」としてみるとどうだろう。急に答え甲斐のある質問になったのではないか。俳句を書く理由は好き好きで構わないとしても、なぜ特定の志向性を持った俳句を書くのかという問いは俳句に対するスタンスを開示させるのに有効であろう。

訊かれてもないのに答えておくと、私はいわゆる「前衛俳句」の潮流とそれを動かした俳人たちの存在をかなり意識している。それは句作に限ったことではないし、また意識するといっても具体的な目標や野望があるわけでもないが、俳句にまつわることに意識を割く時、頭の中には常に彼らの存在がある。

問いを持ちかけた割に不明瞭な回答を済ませたところで、掲句。

象の足しづかに上る重たさよ
島津亮

島津亮は関西の前衛俳句を盛り上げたスターの一人で、『夜盗派』『縄』などを経て晩年は『海程』にも参加していた。掲句は第一句集『紅葉寺境内』の第一句目であり、彼が初めて作った作品であるとのこと。

無季の句ではあるが、象の動きを具に観察し、その質量や生命感を書き切らんとする熱量のある写生句である。言いかえれば、俳句の骨法に則って書かれているとも言える。島津は第二句集ごろまで、いわゆる「前衛」色の強くない俳人であった。有名句〈父酔ひて葬儀の花と共に倒る〉〈怒らぬから青野でしめる友の首〉もこの頃である。

ところが昭和31年ごろから関西で前衛俳句が盛り上がりを見せると、そのトップランナーとしてシュールレアリスムからの影響や兜太の「造型」理論を基にした作品を発表し始める。〈えつ〳〵泣く木のテーブルに生えた乳房〉〈僕らに届かぬ鍵がながれる指ひらく都市〉〈すてるあひるがプールでは死にきれぬかなあという〉〈〈シャガール〉ら鰭振り沈む七妖の藻の街角〉など、先ほどまでの島津とは別人とも思えるほど奇怪・難解な句が並んでいる。

句の評価については賛否あるが、やはり重要なのは彼が前例の少ない作風転換を果敢に行ったことだと思う。兜太を中心とした当時の「流れ」があったとはいえ、彼が「どうしてそういった俳句を書くのか」という問いに対して力強く答えを探そうとした俳人であることは明白である。

前衛俳句や無季俳句、あるいは前例のない形式を持った俳句というのはしばしば句会や勉強の場でイロモノ扱いされる。それは仕方がないし、問題だとも思ってはいないのだが、イロモノに対する興味・関心とその姿勢に対するリスペクトは忘れないように、と自戒をこめて呟いておきたい。次に何がイロモノとされるかなど、誰にもわからないのだから…

細村星一郎


【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。


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