趣味と写真と、ときどき俳句と
【#08】書きものとガムラン

青木亮人(愛媛大学准教授)


始終書きものをするようになって以来、聴く音楽が変わってきた。

物書きをしている時は好きな曲を流すというより、書きもののBGMにふさわしい音楽を選ぶ必要がある。

そういう時に日本語の歌はあまり適切ではない。耳が歌詞の意味を拾ってしまい、集中力が途切れてしまうためだ。ある時、初期の美空ひばりを聴いていると他の曲も聴きたくなり、マドロス歌謡を自在に歌うひばりの歌声に聴きいりつつ、歌詞から往事の港町の風情を想像しては悦に入り、気づけば手が完全に止まっていた。こういう状況はよくない。

好きなクラシックやポップス、ロックもいいのだが、旋律や曲調に意識が向かってしまうことも多い。テクノもいいが、長時間聴くと耳が疲れてくる。

そんなある時、試しに民族音楽を流してみるとBGMに合う気がした。昔からインドネシアのガムランや中国の古箏、ベトナムの民謡や、ペルシャ音楽にブルガリアの合唱、ハワイアン・ミュージックといった各地の民族音楽が好きで、本を読む時や部屋の整理をする時に折々聴いていた。しかし、書きものをしている時にほぼ聴いていないことに気づき、試しにガムランを小さめの音量で流すと、なかなか良い。

手応え(?)を感じた私は他にも流してみた。アルメニアの歌やバリ島のガムラン、ブルガリアの合唱曲「眠れるトドラ」や中国古箏の「流水」等々……いずれも好感触で、原稿の内容に干渉しない程度に旋律が流れ、書きものに適度に集中できる気がした。ガムランやペルシャ音楽を長時間聴いていると、どこか怪しい雰囲気が立ちこめる――呪術的な空気が濃くなるような――気もしたが、日本なので大丈夫だろうと妙な理屈でやり過ごし、以後は原稿をまとめながら世界各地の民族音楽を流すことが増えたのだった。

原稿を書きながら民族音楽をあまりに聴き続けたためか、今もそれらの曲を聴いた瞬間、締切の焦りやら不安やらが甦り、落ち着かない気分になってしまう。

下記のインドネシアのガムランもそうで、これを聴くと脈打つのが早くなり、妙な切迫感が身体を包むような気がしてしまうが、もちろんガムランに罪はない。この音源は”Nonesuch Explorer Series”という民族音楽専門のシリーズで、現地の音楽を録音したものだ。

それにしても、俳句の原稿をまとめるBGMとしてなぜガムランだったのか、という疑問はないではない。現実逃避したかったのか、単に東南アジアのどこかでのんびり過ごしたかったのだろうか。

バリ島の夕暮れ、潮騒に紛れるように遠くから響くガムランをそれとなく聴きながら、ゆっくり晩食を摂り、海に太陽が沈みゆくのを眺めるひととき……何回生まれ変わったらそんな時間を楽しめるのか、見当も付かない。そもそも、インドネシアの人々は夕暮れにガムランを叩くのだろうか。

【次回は4月30日ごろ配信予定です】


【執筆者プロフィール】
青木亮人(あおき・まこと)
昭和49年、北海道生れ。近現代俳句研究、愛媛大学准教授。著書に『近代俳句の諸相』『さくっと近代俳句入門』など。


【「趣味と写真と、ときどき俳句と」バックナンバー】
>>[#7] 「何となく」の読書、シャッター
>>[#6] 落語と猫と
>>[#5] 勉強の仕方
>>[#4] 原付の上のサバトラ猫
>>[#3] Sex Pistolsを初めて聴いた時のこと
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