連載・よみもの

趣味と写真と、ときどき俳句と【#07】「何となく」の読書、シャッター

趣味と写真と、ときどき俳句と
【#07】「何となく」の読書、シャッター

青木亮人(愛媛大学准教授)


ものを書き続けて倦んだ時、小説を何気なく手に取って読むのがいつしか愉しくなった。例えば、チェーホフの小説の次のような一節。

冬の陽光が雪と窓ガラスの水の模様ごしに射しこんで、サモワールの上で揺れ、その清らかな光が茶こぼしで水浴びしていた。部屋のなかは暖かく、少年たちは、凍えた体のなかで、暖かさと寒さとが互いにゆずるまいとして、くすぐり合っているのを感じていた。「さあ、もうすぐまたクリスマスだなあ!」と、父親は、茶色のタバコを巻きながら歌うように言った。

「少年たち」、松下裕訳

こういうくだりを物語からなかば切り離して味わう。厳冬の窓越しから射しこむ陽光の清々しさを思いやり、サモワールが沸騰する響きを想像する。そんな風に味読していると、頭の中がスッとするのだ。

また、こういう気散じの読書をする際に古典はうってつけで、例えば源氏物語の「紅葉賀」巻は幾度読んでも感に堪えない。

源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将。

容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。入り方の日かげ、さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。

詠などしたまへるは、「これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむ」と聞こゆ。おもしろくあはれなるに、 帝、涙を拭ひたまひ、 上達部、親王たちも、みな泣きたまひぬ。

詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、 常よりも光ると見えたまふ。春宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、「 神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とのたまふを、 若き女房などは、心憂しと耳とどめけり。藤壺は、「 おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし」と思すに、夢の心地なむしたまひける。

天上の楽のような調べが淡く、薄い霧のように身を包むような心地良さが感じられてしまう。

もちろん近代文学も捨てがたく、泉鏡花の文藻はやはり素晴らしい。

と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が蓋を取った、がよっぽど腹が空いたと見えて、 「失礼します。」と碗を手にする。

「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」と肉色の絽の長襦袢で、絽縮緬の褄摺する音なく、するすると長火鉢の前へ行って、科よく覗いて見て、 「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」と銅壺の湯を注して、杓文字で一つ軽く圧えて、「おつけ申しましょう、」と艶麗に云う。

 「恐縮ですな。」と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶も溢さず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形小紋の紋着で、味噌汁(おつけ)を装う白々とした手を、感に堪えて見ていたが、「玉手を労しますな、」と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、(後略)

泉鏡花『婦系図』

物語の筋や内容は覚えているこれらの話を、何となくページをめくり、そこで出会った箇所をしばし読み、言葉の調べそのものを味わう。その味わいは感情のままに昂ぶり、ふとした瞬間に消え、感触だけが残る。空から降ってきた淡雪が頬に触れるや溶けて消えてしまい、冷たいものが肌をかすめた感触だけが残るように。

テクストの楽しみはどうしたって、勝ち誇った、英雄的な、筋骨退しいタイプのものではありえない。そっくり返ったりする必要はない。私の楽しみは大いに漂流のかたちを取ってしかるべきだ。漂流は生起する、(略)それは〈あつかいかねるもの〉というのだろう――あるいはおそらくはまた、― ― 〈愚かしさ〉と。

ロラン・バルト『テクストの楽しみ』、鈴村和成訳

下の写真の猫は、何となく散歩に出かけた時に出会い、撮ったものだ。

最近、「何となく」という気分にいかに臨み、いかに醒めたまま流され、味わいつつ愉しみ、戻ってくるか。最近、その難しさを感じている。

「何となく」を、いかに待ち受けるか。

明確な意志を持って受けとめ、試行錯誤を経て学び、自身の糧とすべく努力を傾けるのではなく、いかに素直に、淡々と受けとめ、味わうことができるか……パラパラと頁をめくった文章の綾に抵抗なく驚き、入りこみ、ひとしきり没頭した後は何事もなかったように気分を戻す、そういう何気ない愉しみ方だ。

そうして眼前の猫は常と変わらず、人間界と無関係に陽光を浴び、のんびりしている。

彼らのそんな姿を眺めていると、何となく安心するから不思議だ。

撮影=青木亮人(禁無断転載)

【次回は4月15日ごろ配信予定です】


【執筆者プロフィール】
青木亮人(あおき・まこと)
昭和49年、北海道生れ。近現代俳句研究、愛媛大学准教授。著書に『近代俳句の諸相』『さくっと近代俳句入門』など。


【「趣味と写真と、ときどき俳句と」バックナンバー】
>>[#6] 落語と猫と
>>[#5] 勉強の仕方
>>[#4] 原付の上のサバトラ猫
>>[#3] Sex Pistolsを初めて聴いた時のこと
>>[#2] 猫を撮り始めたことについて
>>[#1] 「木綿のハンカチーフ」を大学授業で扱った時のこと



【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 【連載】もしあの俳人が歌人だったら Session#10
  2. 【結社推薦句】コンゲツノハイク【2021年8月分】
  3. 【結社推薦句】コンゲツノハイク【2023年6月分】
  4. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第8回】印南野と永田耕衣
  5. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第6回】熊野古道と飯島晴子
  6. 「パリ子育て俳句さんぽ」【4月23日配信分】
  7. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第63回】 摂津と桂信子
  8. 「けふの難読俳句」【第3回】「象」

おすすめ記事

  1. 「パリ子育て俳句さんぽ」【2月19日配信分】
  2. 内装がしばらく見えて昼の火事 岡野泰輔【季語=火事(冬)】
  3. 【秋の季語】二百十日/厄日 二百二十日
  4. 巡査つと来てラムネ瓶さかしまに 高濱虚子【季語=ラムネ(夏)】
  5. 「野崎海芋のたべる歳時記」蒸し鶏の胡麻酢和え
  6. 【クラウドファンディング実施中】『神保町に銀漢亭があったころ』を本にしたい!【終了しました】
  7. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第47回】 房総・鹿野山と渡辺水巴
  8. 【春の季語】月朧
  9. 人とゆく野にうぐひすの貌強き 飯島晴子【季語=鶯(春)】
  10. 神保町に銀漢亭があったころ【第1回】武田禪次

Pickup記事

  1. 【秋の季語】秋高し
  2. 駅蕎麦の旨くなりゆく秋の風 大牧広【季語=秋の風(秋)】
  3. かくも濃き桜吹雪に覚えなし 飯島晴子【季語=桜吹雪(春)】
  4. 神保町に銀漢亭があったころ【第9回】今井麦
  5. 昼顔の見えるひるすぎぽるとがる 加藤郁乎【季語=昼顔(夏)】
  6. 【冬の季語】雪達磨
  7. 【夏の季語】蚊/藪蚊 縞蚊 蚊柱
  8. 【春の季語】復活祭
  9. 神保町に銀漢亭があったころ【第109回】川嶋ぱんだ
  10. 【新年の季語】初日記
PAGE TOP