ここまでは来たよとモアイ置いていく 大川博幸


ここまでは来たよとモアイ置いていく

大川博幸


誰が置いていったのだろうか。

置いていく人の視点なのか、置いていく人を見ている側の視点のなのか。主語が省略されていることで謎が深まっている。

後者だと、モアイ(それを超古代文明的なものと考えて)を置いていった太古の行為者からの呼びかけのように読める。そういう今は不在の太古の行為者が、「ここまでは来たよ」(歩み、という感じがする。この歩みは実際にイースター島というまで渡って来たという物理的な歩みとも取れるし、モアイを作ることのできる技術を持った「文明」の歩みとも取れるように思う)とモアイを残して行ったというふうに読める。広義の存問という感じがする。前者だとすこしコミカルな感じがする。

この川柳を読んで、その大きな行為者を思うとき、「どんなにかさびしい白い指先で置きたまいしか地球に富士を 佐藤弓生」という短歌が思い起こされる。そしてまた、「詩の神のやはらかな指秋の水 田中裕明」(これは神ということに限定されているけれども)も思い出される。

「置く」という行為が、そこに居たという、存在の痕跡を残すこと行為なのだとあらためて気付かされた。

(安里琉太)


【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞



安里琉太のバックナンバー】
>>〔3〕昼ごろより時の感じ既に無くなりて樹立のなかに歩みをとどむ 佐藤佐太郎
>>〔2〕魚卵たべ九月些か悔いありぬ  八田木枯
>>〔1〕松風や俎に置く落霜紅      森澄雄


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