よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜
西山ゆりこ
この感覚、とてもよくわかるなと思う。私もよそ行きで出掛けた日、帰ってきてから写真を撮ったことがある。初めて着るワンピースだった。思っていたより早く家に帰って来たため、すぐに着替えるのはもったいなくて、わざわざ写真を撮ってもらった。ただ、肝心なことに、その日、どこに出掛けたのかは、忘れてしまった。あくまで愛着があるのは、ワンピース自体だった。それに対して、掲出句〈よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜〉には、その「よそ行き」を着ていた丸一日分の思い出が詰まっている気がする。その分、ぐっと詩的な味わいがある。よそ行きの服はもちろんだけれど、それ以上に、その日の余韻をまだ身に纏っていたいような気持ちと言えばいいだろうか。まだそれほど寒くないせいか、コートを着ることもなく、その日の気配がコートを脱いだ途端に消え去ってしまう心配もなさそうだ。だから、余計に雰囲気に浸っていられる。
そして、夜空には、たくさんの星が美しく輝いている。ベランダから眺めたのかもしれない。それは、実際の景であると同時に、作者本人の高揚した気持ちを体現しているようだ。とても的確で、そして実に魅力的な季語の使い方だ。フォーマルな服を脱がず、室内に戻り、少しポーっとしている様子が目に浮かぶ。大切なひとに会った後なのだろうか。甘い幸福感がこちらにも伝わってくる。
「よそ行き」と「星月夜」の組み合わせの醸し出すほどのロマンチックさはないかもしれないけれど、家に帰ってからもその日がまだ終わってほしくないなと思うときは確かにある。私の場合、コンサートがそうだ。コンサートでは、好きなバンドのTシャツを着て出掛け、開園のだいぶ前に会場となるスタジアムやホールに行き、雰囲気を味わう。終演の頃には、汗もかいている。すごい人波で最寄り駅までたどり着くのも大変で、家に帰る頃には、Tシャツはよれよれになる。けれど、その日の思い出が服にも移っているようで、何となく、脱ぎがたい。そして、ようやく、そのTシャツを洗濯籠に放り投げるのだ。
ふと、こうしたコンサートに行ったのも、秋だったなと思う。まだ寒くはない初秋や中秋。帰り道の都会の空には、星はあまり出ていなかった。けれど、心象風景としては、あの夜にも確かに多くの星が瞬いていたはずだ。この句を読んだおかげで、今更ながらそんな夜空に気が付けた。
(遠藤容代)
【執筆者プロフィール】
遠藤 容代 (えんどう ひろよ)
1986年生まれ。「聲」・「天為」所属。句集に『明日の鞄』(ふらんす堂、2025年)。
◆第一句集
冬泉野生の馬も来るといふ
自由でのびやかな把握とやわらかな言葉使いが挙げられよう。(序より・日原 傳)
◆自選十句
何を見る必要ありや鯨の目
二階には店員の来ぬ日永なり
減つてゆく蝌蚪に別れのとき近し
春惜しむすぐに大きくなる熊と
ほうたるの百葉箱のまはりにも
山に来て山の話や星月夜
大柄なひとのさしたる秋日傘
復元の書斎から雪よく見ゆる
耳飾り揺らして上がり絵双六
冬の浜拾へば大切な貝に
【2025年9月のハイクノミカタ】
〔9月1日〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
〔9月2日〕冷蔵庫どうし相撲をとりなさい 石田柊馬
〔9月3日〕葛の葉を黙読の目が追ひかける 鴇田智哉
〔9月4日〕職捨つる九月の海が股の下 黒岩徳将
〔9月5日〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
〔9月6日〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
〔9月7日〕秋や秋や晴れて出ているぼく恐い 平田修
〔9月8日〕戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城
〔9月9日〕たましいも母の背鰭も簾越し 石部明
〔9月10日〕よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜 西山ゆりこ
【2025年8月のハイクノミカタ】
〔8月1日〕苺まづ口にしショートケーキかな 高濱年尾
〔8月2日〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
〔8月3日〕我が霜におどろきながら四十九へ 平田修
〔8月4日〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
〔8月5日〕筆先の紫紺の果ての夜光虫 有瀬こうこ
〔8月6日〕思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 中村草田男
〔8月7日〕広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
〔8月8日〕汗の人ギユーツと眼つむりけり 京極杞陽
〔8月9日〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
〔8月10日〕無職快晴のトンボ今日どこへ行こう 平田修
〔8月11日〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
〔8月12日〕離職者が荷をまとめたる夜の秋 川原風人
〔8月13日〕ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる 尾崎放哉
〔8月14日〕涼しき灯すゞしけれども哀しき灯 久保田万太郎
〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
〔8月20日〕涼新た昨日の傘を返しにゆく 津川絵理子
〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
〔8月24日〕天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
〔8月26日〕天高し吹いてをるともをらぬとも 若杉朋哉
〔8月27日〕桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子
〔8月28日〕足浸す流れかなかなまたかなかな ふけとしこ
〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
〔8月29日〕ゆく春や心に秘めて育つもの 松尾いはほ
〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)