ハイクノミカタ

夕空や日のあたりたる凧一つ 高野素十【季語=凧(春)】

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夕空や日のあたりたる凧一つ

高野素十))


やれやれ、とほっとしている。

目のやり場に困ります問題から解放されたのだ。

数日前の朝、いつものように二階のベランダで洗濯物を干していたところ、ふと目の端が捉えたものがある。

あれ?お隣の物干し竿にカイトが引っ掛かっている。そう思った。どこかから吹き飛ばされたのだろうか。干し物を終えたところで腰を伸ばして(我が家は外から見えないように低いスタンドを使っている)よく見ると、それはカイトならぬ、ハンガーに干された、あー、そのう、グレーの男性用アンダウェアなのであった。近視が相当進んではいるとは言え、カイトではないことは明らか。がらんとしたベランダにその一枚だけが黙然と下がっている。お隣のムッシュウは数年前にご夫人を亡くされ、以来我が家とは反対側の隣に住むご子息一家が氏の身の回りの面倒を見ているとばかり思っていた。氏の夫人は私より幾ばくか年上で、母を亡くしたばかりの私のことも気にかけてくれ、その日のように晴れた朝にはベランダ越しに洗濯物を干しながら短い世間話など交わしたものだった。マダムが亡くなってからはそのベランダに洗濯物が掛かることはなかったから、私の推察はあながち的外れでもあるまい。だのに、なぜかある晴れた日にただ一枚のソレ。高齢と呼ぶにはまだ早いムッシュウではあるが、はなはだ失礼ながらある憶測が頭を過った。お分かり頂けるだろうから具体的には申しません。然し。そのアンダウェアは夕べのうちに取り込まれることもなく、それどころか幾日にも亘ってベランダに吊られ続けたのである。ムッシュウが不在の様子はない。洗濯ものを干す度に、買物帰りにふと空を仰ぐ度に、ソレは目に入る。ここに及んで、不安とも疑念ともつかぬグレーの妄想がぐるぐると私の頭に渦巻き始めた。カイトのような旗のようなソレはSOSではあるまいか?はたまた誰かに向けた合図か、昔見た映画の「幸福の黄色いハンカチ」みたいな?見て見ぬふりをしていいものか?まさか、二軒隣のご子息一家のチャイムを押して、「お父様の家のアレですが・・・」と尋ねるわけにもいかない・・・。人こそ知らね、煩悶の日々だったのである。

それが昨日の朝、消えていた。いつものがらんとしたベランダに戻っていた。遮るものがない景色を二三度瞬きして確かめた。家並みも道も電柱もまるで何事もなかったよう。

今日、いつもの散歩の足を隣駅に広がる大公園まで伸ばした。まだ枯色の芝生の起伏を走りながら子供が凧を飛ばしている。傾きかけた午後の強い光を受けて大空の凧は見えたり消えたりした。

散歩の帰り道、家が近づいたところで目を上げた。さっぱりとしたベランダだ。ムッシュウの家も我が家も。心置きなく空を見上げられることに安堵しながらも、眼裏にはまだグレーの菱型状のものが住みついている。

『現代日本文學大系95 現代句集』 筑摩書房より)

太田うさぎ


【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』


【太田うさぎのバックナンバー】

>>〔75〕シャボン玉吹く何様のような顔     斉田仁
>>〔74〕鳥の恋漣の生れ続けたる                            中田尚子
>>〔73〕浅春の岸辺は龍の匂ひせる     対中いずみ
>>〔72〕猿負けて蟹勝つ話亀鳴きぬ 雪我狂流
>>〔71〕おやすみ
>>〔70〕雪掻きて今宵誘うてもらひけり    榎本好宏
>>〔69〕片手明るし手袋をまた失くし     相子智恵
>>〔68〕肩へはねて襟巻の端日に長し      原石鼎
>>〔67〕小鳥屋の前の小川の寒雀       鈴木鷹夫
>>〔66〕ゆげむりの中の御慶の気軽さよ   阿波野青畝
>>〔65〕イエスほど痩せてはをらず薬喰   亀田虎童子
>>〔64〕大氷柱折りドンペリを冷やしをり  木暮陶句郎
>>〔63〕うららかさどこか突抜け年の暮    細見綾子
>>〔62〕一年の颯と過ぎたる障子かな     下坂速穂
>>〔61〕みかんむくとき人の手のよく動く   若杉朋哉
>>〔60〕老人になるまで育ち初あられ     遠山陽子
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>>〔61〕みかんむくとき人の手のよく動く   若杉朋哉
>>〔60〕老人になるまで育ち初あられ     遠山陽子

>>〔59〕おやすみ
>>〔58〕天窓に落葉を溜めて囲碁倶楽部   加倉井秋を
>>〔57〕ビーフストロガノフと言へた爽やかに 守屋明俊
>>〔56〕犬の仔のすぐにおとなや草の花    広渡敬雄
>>〔55〕秋天に雲一つなき仮病の日      澤田和弥
>>〔54〕紐の束を括るも紐や蚯蚓鳴く      澤好摩
>>〔53〕鴨が来て池が愉快となりしかな    坊城俊樹
>>〔52〕どの絵にも前のめりして秋の人    藤本夕衣
>>〔51〕少女期は何かたべ萩を素通りに    富安風生
>>〔50〕悲鳴にも似たり夜食の食べこぼし  波多野爽波
>>〔49〕指は一粒回してはづす夜の葡萄    上田信治
>>〔48〕鶺鴒がとぶぱつと白ぱつと白     村上鞆彦
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>>〔2〕秋蝶の転校生のやうに来し      大牧 広
>>〔1〕長き夜の四人が実にいい手つき    佐山哲郎


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