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ワイシャツに付けり蝗の分泌液 茨木和生【季語=蝗(秋)】

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ワイシャツに付けり蝗の分泌液

茨木和生


うわっ。思わず自分の着ているものの前をはたきたくなる。何しろ”分泌液“である。ブ・ン・ピ・ツ・エ・キ。余りにも直截で、その字面といい、語感といい、およそ詩語から遠い。日ごろの会話でも医学者や科学者でない限り「分泌液」などと口にしないだろう。しかし、その驚きが仄かなおかしみを誘うのだと思う。別のもっと優美な言葉や言い回しを使ってはこの臨場感は作り出せない。蝗に遭遇したことなど数回しかない私にもリアルに光景が見える。俳句って案外VRなデバイスなのかも。

ところで、私は蝗がどのようにエキをブンピツするのかよく分かっていなかった。

過日ある場でこの句を話題にしたところ、イナゴやバッタは捕まると口から液体を「ビェッ」と吐くのだと教えてくれた人がいた。後ほど調べてみると、それは胃の中の半消化物で黒褐色をしているらしい。しかも臭いとか。この習性のためにショウリョウバッタは醤油バッタとも呼ばれる、なんていう知識まで得た。この句から私は分泌液を淡い黄緑色と思い込んでいたのだけれど、そのファンタジーはビェッと潰えたのでございました。確かに、稲を食べる蝗の消化物が緑色であるわけはない。私は事実より「美」を優先し、それに都合のいいように頭に勝手な絵を描いていたわけだ。

通りかかった田んぼに見つけた蝗。腹を抓んで持ち上げた途端、口から勢いよく何やら吐き出して逃げた。見れば真っ白なシャツには茶色っぽい染み。あーあ。でも、この句は不快どころか、面白がるような飄々とした響きがある。自然界の生物にはそれぞれ生き抜くための知恵が備わっているのであり、それをヒトが気味悪がろうが蔑もうが彼らは知ったこっちゃないのだ。茨木和生の俳句にはそのように風土やそこに生息するものたちををすっぽり受け入れるおおらかさがある。謙虚さと言い換えてもいいのだけれど。

それにしても、昨年、旅先の畦道で蝗を見つけたあのとき面白半分に触らなくてよかった、とつくづく。

『倭』(角川書店、1998年)より。

(太田うさぎ)


【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』

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