ハイクノミカタ

暑き夜の惡魔が頤をはづしゐる 佐藤鬼房【季語=暑し(夏)】


暑き夜の惡魔が頤をはづしゐる

佐藤鬼房


梅雨明けこのかた連日の猛暑ですっかり音を上げている。日中もうだっているけれど、夜もしんどい。それでなくても当方若くはないのである。睡眠力も弱りつつあるのである。ましてやこの熱帯夜、冷房をかけていても蒸し暑さに夜中に何度も寝返りを打っては目を覚ます。そして明け方、ようやく心地よく寝ついた頃、部屋に入り込んだ猫が「にやーん!」と薄明を破る鳴き声と共に寝台に飛び乗るやドカドカ私の体を喉元まで踏みしだく。時計を見れば4:30AM…悪魔かお前は。このところ毎朝がこの調子なのだ。

へたりきって泳ぐ目に掲句が飛び込んで来た。鬼房が悪魔を見ている。

「顎を外す」は大笑いをする意味の慣用表現だから、熱帯夜の寝苦しさを闇に潜む悪魔の哄笑に喩えた句なのだろうか。確かに真夏の眠れなさときたら悪魔に操られていると思えなくもない。ところで、悪魔の笑いといえば人間の愚行を嘲笑するものと凡そ相場は決まっている。開会寸前まで問題噴出で揉めに揉めている五輪、大会関係者が「呪われている」と呟いたそうだけれど、嗤われていると言った方が相応しい。朝令暮改に右顧左眄の様はさぞや悪魔の笑いの壺に嵌まったに違いない。愉快が極まって顎が外れもするだろう。

つい日頃の睡眠不足につられた読み方をしてしまったけれど、頭を振ってもう一度考えてみると、これは夏の真闇を感覚的に捉えた句なのかもしれない。ある夏、街灯も家灯りもない田舎の道で人にはぐれたことがある。鬱蒼と葉を茂らせた木立の奥は深さの測れない暗さだった。顎関節が外れた悪魔の口を想像したらあの闇を思い出した。

いやいやいや、それとも、余りの暑さに参った悪魔が顎を外しているのだとしたら。そんな涼み方があるのかどうか分からないけれど、悪魔のすることだもの。でも、だとしたら、些か親しみが湧く。鬼房だって悪魔と敵対するのではなく、自らの内に抱き込もうとしていたのかもしれないのだし。

(『愛痛きまで』 邑書林 2001年より)

太田うさぎ

*句集では「魔」は異体字が使われていますが、このページでは出力できないため、「魔」の字体を使用しています。ご了承ください。(管理人)


【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』


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