ハイクノミカタ

片手明るし手袋をまた失くし 相子智恵【季語=手袋(冬)】


片手明るし手袋をまた失くし

相子智恵


ない。ない? ないない、やっぱりない! 鞄を何度覗いても、コートのポケットをどれだけ探っても、玄関や廊下を穴の開くほど見つめても、出て来ない・・・手袋の左。前の日の外出のどこかで落としたのだ。またやった。一年前に買ったばかりで、色も柄も気に入っていたから大切に使うと決めていたのに。どうしてこう不注意なんだろう、と何時にもまして自分を責めるのは、残ったもう一方の手袋に対する申し訳なさを感じるからだ。相棒を失った右手袋は何も言わないけれどその静けさが胸に刺さり、いっそのこと一対で落としてしまえばよかったのに、と悔やみさえする。天を仰ぎながら、先日聞いたラジオ番組のインタビューを思い出した。片手袋研究家という人がゲストだった。

その研究家は石井公二と言い、この17年間片手袋を見つけたら全て写真に撮って保存しているそうだ。バスの車窓から発見した場合はバスを降りてその地点まで戻るというから凄い。石井氏によると、路上に溢れる片手袋には放置型と介入型に大別される。道や駅のホームに落ちたままのものは放置型。拾われてガードレールに掛けてあったり、三角コーンに嵌めてあったりと誰かが介在しているのが介入型。へえ~と感心して聞いているうちに、話はあれよあれよという間に片手袋を通した人間論や都市論へ広がって行った。そして、研究家は気宇壮大に結論づけた。手袋を片方落とすという魔の瞬間は誰にでもある、つまり、片手袋の下に人間は平等なのである、と。

石井氏の言葉を思い出した私は少し気を取り直して天を仰ぐのを止めた。この瞬間にも同じように手袋の片割れを失くして嘆いている人が世界のどこかにいるかもしれない。私だけじゃない。その人たちには心の中で「あなただけじゃない」と呼びかけよう。残った手袋は鍋掴み代りに使おう。そして新しい手袋を買いに出かけよう。今度こそ落とさない!

 片手明るし手袋をまた失くし

この句は片手袋研究とは違った角度から心の負担を軽くしてくれる。片手が明るいとは一体なんのことかと思うと、手袋の片方を失くしたからだという。しかも「また」。初めてではないのだ。常習犯なのかもしれない。しかも悪びれない。手袋が必要な日はそれだけの気温なのだから、手袋なしで外気に晒されている側の手は冷たく悴んでいる筈だ。でも、そこを言わずに、素手の明るさという思いがけない視点に転じられるのは、句作の技法云々の前に精神がしなやかだから。であるならば悪びれない、は早々に撤回し、茶目っ気たっぷり、と言い直そう。自分の立て直し方を知っている大人のアティテュードに片手袋を失くしたばかりの私はたいそう励まされたのであった。

次は失くさない!

『呼応』左右社 2021年より)

太田うさぎ


【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』


【太田うさぎのバックナンバー】

>>〔68〕肩へはねて襟巻の端日に長し      原石鼎
>>〔67〕小鳥屋の前の小川の寒雀       鈴木鷹夫
>>〔66〕ゆげむりの中の御慶の気軽さよ   阿波野青畝
>>〔65〕イエスほど痩せてはをらず薬喰   亀田虎童子
>>〔64〕大氷柱折りドンペリを冷やしをり  木暮陶句郎
>>〔63〕うららかさどこか突抜け年の暮    細見綾子
>>〔62〕一年の颯と過ぎたる障子かな     下坂速穂
>>〔61〕みかんむくとき人の手のよく動く   若杉朋哉
>>〔60〕老人になるまで育ち初あられ     遠山陽子
>>〔59〕おやすみ
>>〔58〕天窓に落葉を溜めて囲碁倶楽部   加倉井秋を
>>〔57〕ビーフストロガノフと言へた爽やかに 守屋明俊
>>〔56〕犬の仔のすぐにおとなや草の花    広渡敬雄
>>〔55〕秋天に雲一つなき仮病の日      澤田和弥
>>〔54〕紐の束を括るも紐や蚯蚓鳴く      澤好摩
>>〔53〕鴨が来て池が愉快となりしかな    坊城俊樹
>>〔52〕どの絵にも前のめりして秋の人    藤本夕衣
>>〔51〕少女期は何かたべ萩を素通りに    富安風生
>>〔50〕悲鳴にも似たり夜食の食べこぼし  波多野爽波
>>〔49〕指は一粒回してはづす夜の葡萄    上田信治
>>〔48〕鶺鴒がとぶぱつと白ぱつと白     村上鞆彦
>>〔47〕あづきあらひやひとり酌む酒が好き  西野文代
>>〔46〕夫婦は赤子があつてぼんやりと暮らす瓜を作つた 中塚一碧楼
>>〔45〕目薬に涼しく秋を知る日かな     内藤鳴雪
>>〔44〕金閣をにらむ裸の翁かな      大木あまり
>>〔43〕暑き夜の惡魔が頤をはづしゐる    佐藤鬼房
>>〔42〕何故逃げる儂の箸より冷奴     豊田すずめ
>>〔41〕ひそひそと四万六千日の猫      菊田一平
>>〔40〕香水や時折キッとなる婦人      京極杞陽
>>〔39〕せんそうのもうもどれない蟬の穴   豊里友行
>>〔38〕父の日やある決意してタイ結ぶ    清水凡亭
>>〔37〕じゆてーむと呟いてゐる鯰かな    仙田洋子
>>〔36〕蚊を食つてうれしき鰭を使ひけり    日原傳
>>〔35〕好きな樹の下を通ひて五月果つ    岡崎るり子
>>〔34〕多国籍香水六時六本木        佐川盟子
>>〔33〕吸呑の中の新茶の色なりし       梅田津
>>〔32〕黄金週間屋上に鳥居ひとつ     松本てふこ
>>〔31〕若葉してうるさいッ玄米パン屋さん  三橋鷹女
>>〔30〕江の島の賑やかな日の仔猫かな   遠藤由樹子
>>〔29〕竹秋や男と女畳拭く         飯島晴子
>>〔28〕鶯や製茶会社のホツチキス      渡邊白泉
>>〔27〕春林をわれ落涙のごとく出る     阿部青鞋
>>〔26〕春は曙そろそろ帰つてくれないか   櫂未知子
>>〔25〕漕いで漕いで郵便配達夫は蝶に    関根誠子
>>〔24〕飯蛸に昼の花火がぽんぽんと     大野朱香
>>〔23〕復興の遅れの更地春疾風       菊田島椿
>>〔22〕花ミモザ帽子を買ふと言ひ出しぬ  星野麥丘人
>>〔21〕あしかびの沖に御堂の潤み立つ   しなだしん

>>〔20〕二ン月や鼻より口に音抜けて     桑原三郎
>>〔19〕パンクスに両親のゐる春炬燵    五十嵐筝曲
>>〔18〕温室の空がきれいに区切らるる    飯田 晴
>>〔17〕枯野から信長の弾くピアノかな    手嶋崖元
>>〔16〕宝くじ熊が二階に来る確率      岡野泰輔
>>〔15〕悲しみもありて松過ぎゆくままに   星野立子
>>〔14〕初春の船に届ける祝酒        中西夕紀
>>〔13〕霜柱ひとはぎくしやくしたるもの  山田真砂年
>>〔12〕着ぶくれて田へ行くだけの橋見ゆる  吉田穂津
>>〔11〕蓮ほどの枯れぶりなくて男われ   能村登四郎
>>〔10〕略図よく書けて忘年会だより    能村登四郎
>>〔9〕暖房や絵本の熊は家に住み       川島葵 
>>〔8〕冬の鷺一歩の水輪つくりけり     好井由江
>>〔7〕どんぶりに顔を埋めて暮早し     飯田冬眞
>>〔6〕革靴の光の揃ふ今朝の冬      津川絵里子
>>〔5〕新蕎麦や狐狗狸さんを招きては    藤原月彦
>>〔4〕女房の化粧の音に秋澄めり      戸松九里
>>〔3〕ワイシャツに付けり蝗の分泌液    茨木和生
>>〔2〕秋蝶の転校生のやうに来し      大牧 広
>>〔1〕長き夜の四人が実にいい手つき    佐山哲郎


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. ふんだんに星糞浴びて秋津島 谷口智行【季語=星糞(秋)】
  2. 誰かまた銀河に溺るる一悲鳴 河原枇杷男【季語=銀河(秋)】
  3. 兎の目よりもムンクの嫉妬の目 森田智子【季語=兎(冬)】
  4. 春山もこめて温泉の国造り 高濱虚子【季語=春山(春)】
  5. 思ひ沈む父や端居のいつまでも    石島雉子郎【季語=端居(夏)…
  6. 蕎麦碾くや月山はうつすらと雪 佐藤郁良【季語=雪(冬)】 
  7. 秋の風互に人を怖れけり 永田青嵐【季語=秋の風(秋)】
  8. 大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田龍太【季語=大寒(冬)】

おすすめ記事

  1. 【クラファン目標達成記念!】神保町に銀漢亭があったころリターンズ【16】/寺澤佐和子(「磁石」同人)
  2. 【新年の季語】門松
  3. 【春の季語】涅槃絵図
  4. 人とゆく野にうぐひすの貌強き 飯島晴子【季語=鶯(春)】
  5. 順番に死ぬわけでなし春二番 山崎聰【季語=春二番(春)】
  6. 【冬の季語】おでん
  7. 神保町に銀漢亭があったころ【第57回】卓田謙一
  8. 【第3回】ラジオ・ポクリット(ゲスト: 成田一子さん)
  9. 【春の季語】花
  10. 【夏の季語】向日葵

Pickup記事

  1. 対岸の比良や比叡や麦青む 対中いずみ【季語=麦青む(春)】 
  2. 牛日や駅弁を買いディスク買い 木村美智子【季語=牛日(新年)】
  3. 神保町に銀漢亭があったころ【第81回】髙栁俊男
  4. 笠原小百合の「競馬的名句アルバム」【第5回】2013年有馬記念・オルフェーヴル
  5. 【春の季語】菜の花
  6. 高梁折れて頬を打つあり鶉追ふ      三溝沙美【季語=鶉(秋)】
  7. 秋・紅茶・鳥はきよとんと幸福に 上田信治【季語=秋(秋)】
  8. 「野崎海芋のたべる歳時記」あんずのコンポート
  9. 【冬の季語】鯨
  10. 【冬の季語】冬の谷
PAGE TOP