ハイクノミカタ

バレンタインデー心に鍵の穴ひとつ 上田日差子【季語=バレンタインデー(春)】


バレンタインデー心に鍵の穴ひとつ

上田日差子
(『忘南』)

 日本でバレンタインデーが流行りだしたのは昭和33年。売春禁止法により赤線が廃止された年である。当時は、恋人同士でプレゼントを交換するような風習であったとか。その後、製菓業界が販売促進のため、女性が好きな男性にチョコレートを贈る日としてチョコレートを売り出した。昭和50年頃より、若い女性達の間でチョコレート旋風が吹き始める。奥ゆかしくあれと育てられてきた日本人女性が、1年に1度、自分から男性に告白できる日。チョコレートという小物遣いも見事。昭和の女性達は、恋の熱風に踊らされた。

 私が小学生低学年の頃、母は、バイオリン教室の先生に日頃の感謝の気持ちを込めてチョコレートを渡そうと思ったらしい。当時はまだ、義理チョコという考え方がなかったため、売られているチョコレートはすべてハート型。母に手を引かれて何件もの菓子屋を歩き回り、何とかハート型ではないチョコレートを見つけた。その菓子屋の店主は、フランス帰りで高いチョコレートを売りつけてきた。パティシエという言葉が定着していなかった時代である。無造作に積み上げた煉瓦の欠片のようなチョコレートは、いったいどんな味がしたのだろうか。

 12歳の頃であったと思う。同級生の女の子が好きな男の子にチョコレートを渡したいので、一緒に選んで欲しいと相談された。二人でバスに乗り、30分ほど揺られて到着した茨城県土浦市のアーケード街は賑やかで、ドキドキしながら歩いたものである。バレンタインデーを間近に控えた店舗は、菓子屋はもちろんのこと、洋服屋も金物屋も店頭にハート型のチョコレートを並べている。友人と手を繋ぎながらチョコレートを覗いてゆく。そんな幸せな時間もあったのだ。私の好きだった男の子は甘いものが嫌い。私もまた、甘い物を禁じられていたため、チョコレートを買う気はないのだ。でもチョコレートが美しいものであることを知った。

 友人の女の子が選んだのは、ハート型の真ん中に鍵穴があり、その横に鍵形のチョコレートが添えてあるものであった。「私の心の鍵はあなたが握っている」ってことか。とても感動した。ちなみに、私が薦めたのは、ハートに矢が刺さっているチョコレート。センスが無いのは昔からだった。

バレンタインデー心に鍵の穴ひとつ  上田日差子

 心の鍵の穴は、ひとつだけなのだが、世の中にはスペアキーが沢山存在する。本物を見極めるのは容易ではない。自分の心にカチリと嵌まる鍵を見つけるのが恋の修行なのだろう。人は、運命の恋人に出逢うためいろいろな恋をする。

 幼稚園に入る前のことであったと思う。祖母が蔵の南京錠の鍵を紛失してしまい慌てていた。普段は無口な私が急に「はたけ、はたけ」と言ったらしい。鍵は耕しかけた畑から出てきた。ところがその鍵は、先代の紛失した鍵だったのか青く錆びていた。錆を磨いて嵌めると南京錠は乾いた音とともに開いた。不思議なこともあるものだと祖母は驚いたが、先代が畑に落とした鍵こそ本鍵だったのだ。

 数年後、その祖母が倒れて緊急入院し目覚めた時、私を見て言った。「夢の中で、おまえが欲しいという青い花を摘もうと崖に身を乗り出したら、おまえが私の腰に抱きついて泣き出したからやめたのさ。止めてくれなかったら死んでいたね」と。私には、幼い頃から見る夢があった。崖の真中に咲く青い花を摘むため蔓草をよじ登り、転落する夢。私が話した無邪気な夢の話を覚えていてくれていたのだ。

 崖に咲いた青い花は、私の心の鍵なのではないかと思った淡い青春時代。あの花を摘んできてくれた勇者と結婚したいとか、恋に恋する少女の妄想は恐ろしい。

 花が好きだった。一緒に小さな花を愛でてくれる恋人が欲しかった。いつも何かと闘っている男性にしか恋をしなかった私の心の矛盾である。菫の花を平気で踏んづけてしまうような荒々しい男性に憧れ、疲れた。この人なら花の美しさを分かってくれるだろうと思って交際した優しき人は、花が嫌いであった。

 心の鍵穴は一つなのに、カチリと嵌まる鍵を見つけることは広大な畑で落とした鍵を探すことよりも難しい。夫と結婚を決意したのは、久しぶりに青い花の夢を見たからである。デートの時、公園の崖に一輪咲いている青いクロッカスの花に触れようとした私よりも先に身を乗り出して摘んでくれようとした。公園内の植物を採取することは禁止されているので止めたが。そういえば、夫の句で〈深爪をして逢ひにゆくクロッカス 飯田冬眞〉なんて句もあった。鍵穴は一つなのだが、それに嵌まる鍵を見つけるのも差し出すのも命がけである。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔83〕逢曳や冬鶯に啼かれもし      安住敦
>>〔82〕かいつぶり離ればなれはいい関係  山﨑十生
>>〔81〕消すまじき育つるまじき火は埋む  京極杞陽
>>〔80〕兎の目よりもムンクの嫉妬の目   森田智子
>>〔79〕馴染むとは好きになること味噌雑煮 西村和子
>>〔78〕息触れて初夢ふたつ響きあふ    正木ゆう子
>>〔77〕寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ   小路智壽子
>>〔76〕服脱ぎてサンタクロースになるところ 堀切克洋
>>〔75〕山茶花のくれなゐひとに訪はれずに 橋本多佳子
>>〔74〕恋の句の一つとてなき葛湯かな 岩田由美
>>〔73〕待ち人の来ず赤い羽根吹かれをり 涼野海音
>>〔72〕男色や鏡の中は鱶の海       男波弘志
>>〔71〕愛かなしつめたき目玉舐めたれば   榮猿丸
>>〔70〕「ぺットでいいの」林檎が好きで泣き虫で 楠本憲吉
>>〔69〕しんじつを籠めてくれなゐ真弓の実 後藤比奈夫
>>〔68〕背のファスナ一気に割るやちちろ鳴く 村山砂田男
>>〔67〕木犀や同棲二年目の畳       髙柳克弘
>>〔66〕手に負へぬ萩の乱れとなりしかな   安住敦
>>〔65〕九十の恋かや白き曼珠沙華    文挾夫佐恵
>>〔64〕もう逢わぬ距りは花野にも似て    澁谷道
>>〔63〕目のなかに芒原あり森賀まり    田中裕明
>>〔62〕葛の花むかしの恋は山河越え    鷹羽狩行
>>〔61〕呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉  長谷川かな女
>>〔60〕あかくあかくカンナが微熱誘ひけり 高柳重信
>>〔59〕滴りてふたりとは始まりの数    辻美奈子
>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな   筑紫磐井
>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり    藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. クリスマスイヴの始る厨房よ    千原草之【季語=クリスマス(冬…
  2. 赤き茸礼讃しては蹴る女 八木三日女【季語=茸(秋)】
  3. 犬の仔のすぐにおとなや草の花 広渡敬雄【季語=草の花(秋)】
  4. もろ手入れ西瓜提灯ともしけり 大橋櫻坡子【季語=西瓜提灯】
  5. 天狼やアインシュタインの世紀果つ 有馬朗人【季語=天狼(冬)】
  6. 噴水に睡り足らざる男たち  澤好摩【季語=噴水(夏)】
  7. 吊皮のしづかな拳梅雨に入る 村上鞆彦【季語=梅雨に入る(夏)】
  8. 水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人【季語=雪(冬)】

おすすめ記事

  1. 帰るかな現金を白桃にして 原ゆき【季語=白桃(秋)】
  2. 【春の季語】桜蘂降る
  3. 【春の季語】春雷
  4. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第66回】 秩父・長瀞と馬場移公子
  5. こんな本が出た【2021年6月刊行分】
  6. 幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦
  7. 蓑虫の揺れる父性のやうな風  小泉瀬衣子【季語=蓑虫(秋)】
  8. 老僧の忘れかけたる茸の城 小林衹郊【季語=茸(秋)】
  9. 【冬の季語】冬帽
  10. 【秋の季語】運動会

Pickup記事

  1. 俳句おじさん雑談系ポッドキャスト「ほぼ週刊青木堀切」【#3】
  2. 先生はいつもはるかや虚子忌来る 深見けん二【季語=虚子忌(春)】
  3. その朝も虹とハモンド・オルガンで 正岡豊
  4. 雪折を振り返ることしかできず 瀬間陽子【季語=雪折(冬)】 
  5. みかんいろのみかんらしくうずもれている 岡田幸生【季語=蜜柑(冬)】
  6. 秋蝶のちひさき脳をつまみけり 家藤正人【季語=秋蝶(秋)】
  7. 胸元に来し雪虫に胸与ふ 坂本タカ女【季語=雪虫(冬)】
  8. カードキー旅寝の春の灯をともす トオイダイスケ【季語=春の灯(春)】 
  9. 一瞬で耳かきを吸う掃除機を見てしまってからの長い夜 公木正
  10. 十二月うしろの正面山の神 成田千空【季語=十二月(冬)】
PAGE TOP