嫁がねば長き青春青蜜柑
大橋敦子
(『手鞠』)
昭和の頃、オールドミスという言葉があった。結婚適齢期を過ぎても未婚でいる女性のことである。年増というと娘盛りを過ぎた女性一般をさすが、オールドミスには、婚期を逃したというイメージがある。その後、ハイミスという言葉が流行した。田辺聖子の小説で広く知られるようになった言葉だ。ハイミスは、結婚適齢期が過ぎても独身生活を楽しんでいる女性のイメージがある。
高校生の頃、田辺聖子の小説が好きだった。テンポの良い関西弁と華やかな独身生活、だけれども切ない気持ちにさせる。こんなOL生活をしてみたいなどと憧れたものである。 昭和の終わりから平成の初めの頃のバブル期のOLは、腰掛けOLと呼ばれ、結婚相手を探す猶予期間として働いているお茶汲み従業員と見なされた。使い捨てが前提だが、女性特有の華やかさや細やかな作業能力が評価され、窓口業務、事務、営業補佐などで活躍した。バブル期の頃は、入社より2年ほどで寿退社をするのが望ましいと考えられていた。遅くとも25歳が限度。当時の出産や子育てなどを考えるとそういう計算になったのであろう。入社年齢は、高卒ならば18歳、専門学校・短大卒なら20歳、4大卒なら22歳になる。当時の女性は、4大卒だと婚期が遅れるなどと言われ進学を反対された。一方男性は、学歴社会。一流企業となると4大卒が多い。短大卒の女性からすると、同じ年でも社会人として2年先輩となる。すでに誰かの唾付きとなった年上男性を狙うか、手付かずの後輩を育てるか、OL達の熾烈な結婚レースがあったのである。
田辺聖子の小説のハイミス達は、そんなレースなど気にしない。キャリアを積み、お金を貯めて、ある時は、資産家の男性と豪華な食事を楽しみ、またある時は、貧乏学生に貢いだりもする。婚期を逃した理由が、不倫だったり家の事情だったりするのが悲しいところである。一生独身を貫くか、良いところで妥協するかの境目が30歳。ずっと独身でいる約束を交わした友人が結婚してしまうなどの裏切りもある。そんな世の中の酸いも甘いも知ったハイミスに訪れる真実の恋。若いOL達が男性の肩書きだけに恋をして、真実の心の通い合いを見失っていることを批判するような小説であったと記憶している。
昔の女性は、結婚すると専業主婦となる。結婚後は、家庭を守り、家庭に縛られながら人生の大半を費やすのである。そのため、夫になる人には、経済力はもちろんのこと、一族を引っ張ってゆく男気が求められる。女性が男性の肩書きに恋をするのは当然であろう。理想的な男性と結婚しても、夫は仕事と称して夜遅くまで飲み歩き、愛人を作り、子育てや家事に無関心であるのが現実であった。夫の一族との不和も子供の非行や病気も全て妻の責任にされてしまう。女性にとって結婚は孤独であるという考え方も成立する訳である。
現在は、男女雇用機会均等法の改正の影響もあり女性が働き易くなり、働く妻が多くなった。不況により妻の収入が必要であるのもまた、現代の夫には痛いところ。家庭もまた男女平等化が進んでいるのだ。現代の妻は、夫の理解さえあれば、会社の飲み会に行ったり、夜遊びもできるようだ。それでも年に数回程度だが。
結婚しても女性が美しくいられる時代になったと言われている昨今。だが、結局のところ女性は結婚すると家庭が何よりも大事になるのだ。田舎育ちの私は、キャリアウーマンの母から「家庭を優先せよ」と教えられ育てられてきた。結婚すれば、昼間の仕事をしていても、お洒落は二の次になり、いつしか化粧の仕方も忘れ太ってしまう。夜遊びは勿論のこと、恋愛なんてとんでもない。そんな暇があったら、夫の布団を干しているわ。
そんな家事という戦争に明け暮れていた私が、久しぶりに会ったキャリアウーマンの阪西敦子さんは、女神のように輝いていた。私と同じ昭和生まれで独身の阪西敦子さんは、今でも青春をしているようだ。
嫁がねば長き青春青蜜柑 大橋敦子
そんなこんなで、同名の敦子さんの当該句。作者は、大橋櫻坡子の長女として生まれ、生涯独身であったという。父よりの俳句の才を受け継いだがゆえの家庭の事情だったのだろうか。それとも家庭のために日夜家事をする母を見ていたせいなのか…。多分、作者は俳句と結婚したのだ。二十代の頃より結社誌の編集に携わり、父の死後は「雨月」主宰として世に名句を残した。
結婚適齢期に俳句にいそしみ、妹たちの結婚を横目に父の手伝いをしていた。次々と結婚してゆく妹や友人達。数年後には、みんな疲れ果てて、輝きを失っていったのだろう。作者にとって青春とは、何だったのか。恋とは断定できない。好きな俳句が思いっ切り詠めるということだったのだろう。当時は、女流俳人の進出が目覚ましかった時代ではあるが、家庭の事情で俳句を諦めた女性は数知れない。女流俳人が結婚すれば、一日中費やしても終わらない家事の後に、原稿を書き、結社の編集の仕事をし、休日は句会に出かけることとなる。それは、現代の妻にだって難しい。結婚は俳句活動の邪魔でしかないと思ったとしても不思議ではない。
結婚という荒浪の中で俳句を拠り所にすることができた幸運の妻達は、月に一度の句会の際には、おめかしをして出かける。時には、新しい服を新調することも。句会で会うご婦人方は、授業参観日か句会の時にしか化粧をしないとのこと。
昨今のコロナの影響で句会の中止が続いている私は、化粧の仕方も忘れ太ってしまった。生きることに必死で、服を新調することもできない。テレワークで一日中愚痴を言っている夫が「旨い飯さえ作ってくれれば、ぷよぷよでも可愛い」って言うから。
そんななか、私の俳人協会新人賞受賞式に駆けつけて下さった独身の阪西敦子さんは、すらりとしたワンピースを着こなし、若々しく美しかった。敦子さんの青春はまだまだ続くのである。未婚であることは、若さの糧だ。永遠に俳句に恋をせよ。熟すことを知らない青蜜柑のように、瑞々しい光沢を放って…。
令和2年度俳人協会四賞授与式の美しい阪西敦子さんが見られる動画は、こちら。12分30秒から登場します。
(篠崎央子)
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
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