ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂信子【季語=梅雨(夏)】


ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

桂信子
(『女身』)


 梅雨の時期の気圧や湿度は、女性を体調不良にさせる。精神的に不安定となる女性も多い。古代において梅雨は皐月(旧暦五月)の頃で忌み月ともいわれていた。早乙女が田植えの前に家にこもって自身の穢れをはらい、身を清める風習があった。現代では、5月に田植えをする地域も多いが、古代では新暦の6月頃に田植えを行っていた。田植えの時期は、皐月(旧暦五月)の梅雨の頃だったのである。『古今和歌集』に残る〈ほととぎす鳴くやさつきのあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな よみ人しらず〉は、忌み月の歌である。ほととぎすが鳴く皐月に咲くあやめ草、その名のように、あやめも知らぬ(道理をわきまえない)恋をしていることだ、という内容。田を植える早乙女は、巫女的な存在であるため、男性との接触が禁じられていた。また農繁期であるため、早乙女でなくとも男女の逢瀬は許されなかった。当時の男女の逢瀬は月夜の晩に限られていることも重なり、五月雨(梅雨)の頃は男女共に、忌み籠もりの時期なのである。そんな五月雨の鬱屈は、人の心を狂わせる。あやめも知らぬ恋をすることもあるだろう。

 作者の桂信子は、大正3年生まれ。昭和9年、20歳の時に日野草城に憧れ俳句を始める。当時、日野草城は、妄想初夜「ミヤコホテル」連作を発表していた。4年後の昭和13年、草城主宰の「旗艦」へ投句。翌年結婚するが、2年後に夫が喘息の発作のため急逝。信子は26才であった。その後実家に帰り、仕事をしながら生涯独身を貫いた。近鉄の関連会社へ勤務し、朝早くから夜遅くまで重役のフォローや取引先の接待をしていたキャリアウーマンであったといわれている。

 俳人としては、草城の主宰誌の主力同人となる一方で、女流俳人の同人誌「女性俳句会」の編集長を勤めた。草城の死後は、選者などをしつつ、昭和45年、会社を定年退職し「草苑」を創刊。その後は、第1回現代俳句協会賞受賞、現代俳句女流賞受賞、第26回蛇笏賞受賞、第11回現代俳句協会大賞、毎日芸術賞、など多数の賞を受賞する。平成16年、90歳で死去するまで俳句を詠み続けた。

 若くして寡婦となり、社会性俳句が全盛期の頃に草城の影響を受けたエロティシズムの句を詠み、晩年は、俳味のある句を自在に詠んだ。信子の美しい歳のとりかたは、今でも女性の憧れである。

  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子

 寡婦となった信子は、当時でいう職業婦人となる。今の言葉でいえばキャリアウーマンである。若き寡婦には、世間の好奇の目が注がれる。句会の席ではもちろんのこと、会社の上司や取引先の客にも「再婚しないの?恋人は?良い人紹介しようか?」とか。現代ならセクハラ発言だが、当時はそのような概念はない。体調不良で会社を休めば「生理痛?」などとも言われたであろう。

 また、当時の女性の社会的地位は低い。どんなに仕事を頑張っても出世することもなく、給料が上がることもない。女性の手柄は全て男性に持っていかれてしまう。男性社会の会社で、たんたんと仕事をこなしていても男性の視線はせり上がった胸元に注がれる。

 子供もなく寡婦となり、恋をする暇もなく働く信子にとって、乳房は無用のものであった。誰からも愛されることのない乳房。出世することもなく、ただ好奇の目に晒される乳房。梅雨の時期は、汗を孕み重くのしかかる。夏場の薄いシャツは無用の乳房をさらに大きく見せたであろう。

 信子は、草城の恋の句に憧れて俳句を始めた作家である。恋に興味はあった。だが恋に興味があることと現実は違う。文学の恋に興味を抱いた女性が現実の世界でたくさんの恋をするとは限らない。売れっ子の少女漫画家が理想的な恋愛を求め続け独身だった例もある。文学少女が恋に妄想を抱き過ぎて、現実の恋が出来なかった話もよく耳にする。

 妄想で恋をし、恋の句を詠むことは可能である。平安時代の貴族達は、「恋」という題詠で切ない恋の歌を多く残した。実際には、恋をしていなくとも「こんな恋をしてみたい」とか、世間の噂などの欲求に答えて恋の歌を即興で詠むこともあった。信子もまた、「寡婦らしい句を詠んでみようか」などという発想から、情欲を持て余す女性の肉体を詠んだとしても不思議ではない。

 〈ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜 信子〉は、蛍という恋のイメージから着想された句ともいわれている。『後拾遺集』の〈物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る 和泉式部〉のように蛍は、恋の魂の象徴である。和歌の伝統からすれば、狂おしい恋を詠まなければならないのだが、〈ゆるやかに着て〉と着崩した姿を詠むあたりが見事である。ほのかな色気を放ちつつも気張った格好ではない。現代に至るまで、数多くの男性を魅了し続けたこの一句は、妄想では詠めない。どこかで真実があると思わせてしまう。

 〈窓の雪女体にて湯をあふれしむ 信子〉〈寡婦われに起ちても臥ても鶏頭燃ゆ 信子〉などの句は、若き寡婦が女盛りの肉体を持て余しているように解釈されている。これらの句は、文芸上の恋に憧れ、女流俳人として世間の期待に添うために、詠まれた句なのだろうか。〈いなびかりひとと逢ひきし四肢てらす 信子〉という句もあり、再婚には至らなかったが、恋はしていたのではないかという解釈もある。

 サービス精神旺盛な信子は、どこかで若き寡婦のエロティシズムを演じていた。そんな句を詠んでみたいという憧れもあったであろう。だが、妄想とか文芸上の創作とは言い切れないリアルがある。実際に、体験した女性にしか分からない苦しさが伝わってくる。読者の心を惑わす恋愛俳句の魔術師だったのかもしれないが。

 以下は、私の妄想である。夫と死別し若き寡婦となった女性がいた。仕事と俳句を両立し、女性としての自立を目指していた。女性にしか出来ない仕事、女性にしか詠めない俳句を追い求めていた。男性に頼って生きる時代は終わったのだ。そんな思想とはうらはらに尊敬せずにはいられない男性が現れた。相手もまた自分の夢を応援してくれた。妄想ではなく、身も心も満たしてくれる男性がこの世に存在したのだ。だが、男性との関係は世間には公表できない恋であった。わずかな時間での逢瀬、逢えない日が続く。もう諦めてしまわなければならない、別れを告げなければならない。そんな気持ちとは切り離された乳房が男性との逢瀬の日を願って張っていた。心と肉体の齟齬は、女性を鬱にする。少し早めに帰った雨の夜は長く、ただ朽ちてゆくだけの紫陽花のように乳房が虚しく揺れていた。

篠崎央子


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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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