ハイクノミカタ

火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子【季語=火事(冬)】


火事かしらあそこも地獄なのかしら

櫂未知子
(『櫂未知子集』『カムイ』)


 恋とは火事のようなものである。身を焼き尽くすかのような恋の炎、苦しく悶える地獄のような日々。人を傷つけながらも消すことのできない情念の炎。女の恋はいつも炎を纏っている。

 恋と火事と言えば、「八百屋お七」を思い出す。本郷の八百屋の娘お七は、天和の大火の際に火を逃れ、親とともに正仙院に避難する。その避難先の寺にて出逢った、寺小姓と恋に落ちる。焼け落ちた八百屋が再建され、避難生活は終了するが、寺小姓への恋の想いは募るばかり。大人達や世間の煩わしい目もあり逢瀬の叶わない日々が続き、また火事になれば逢えるのではないかと思い詰めるようになる。恋する男に逢いたい一心で、お七は、自宅に火を放つ。火はすぐに消し止められたが、お七は放火の罪で火あぶりの刑に処せられた。火事の縁で火のような恋をし、放火の罪で火あぶりの刑となる、火の女である。

 「八百屋お七」の放火事件は、井原西鶴が『好色五人女』にて取り上げたことにより、広く世に知られることとなる。歌舞伎や浄瑠璃の題材としても有名である。今でもお七の墓のある文京区の円乗寺を訪れる人は多い。

 この「八百屋お七」の物語は、人気少女漫画『ガラスの仮面』にも登場する。私も中学生の頃に読み「八百屋お七」に興味を持った。天才的な演技力を持つヒロイン北島マヤは、火の演技という課題で、「八百屋お七」を演じる。現実の火ではなく、恋の火を演じようとした発想が評価されるが、師匠である月影千草に「あなたは、本当の恋を知らない」と指摘される。実は、月影千草は、名女優と言われた若き頃、火の演技の課題で「八百屋お七」を演じたことがあったのだ。その時、演出家尾崎一蓮への叶わぬ恋の想いを全力で演じ、名作『紅天女』の主演の座を得ることとなった。魂の触れ合いを感じつつも許されることのない恋の火は、月影千草を伝説の女優となし、その魂は北島マヤに受け継がれてゆく。

 現代でも「八百屋お七」は存在している。1993年12月14日に起こった、日野OL不倫放火殺人事件は、世間に衝撃を与えた。上司と不倫関係にあった27歳のOLは、不倫相手である男性宅に侵入し、自宅室内で就寝中だった長女(当時6歳)、長男(当時1歳)にガソリンを散布して放火し、自宅を全焼させた。夫婦の留守の際に起こした事件だが、幼い子供達は、その放火により命を失ってしまう。事件後、放火したOLが相手男性との子供を二度も中絶していたことや、男性が結婚をほのめかす言動をし続けていたこと、男性の妻がOLを傷つけるような暴言を吐いていたことが発覚し、同情が集まった。大人の恋の事情で幼き命を奪った罪は許されることではないが、メディアは、男性とその妻の言動が純情なOLを追いつめることとなったと激しく批判した。OLは裁判中に講談社が発行する雑誌『月刊現代』にて、弁護士に宛てた私信を公表した。そのタイトルは、「獄中手記 私が落ちた愛欲の地獄」であった。

 女の恋は、火事をも引き起こすが、世の中を蓮華の炎で覆うような恋の罪は、世間の同情と共感を得るのかもしれない。自分の身だけでなく、世界を焼き尽くすような激しい恋、そんな恋を知っている女は、この世にどれだけ存在するのだろうか。一度でも良いからそんな恋をしてみたいと憧れてしまう人は、まだ恋の地獄を知らないのだ。※放火は重罪ですので良い子は真似をしてはいけません。

  火事かしらあそこも地獄なのかしら   櫂未知子

 この句の主人公は、火事のような恋を知っているのである。その恋が地獄のような苦しみを伴うことも知っている。恋という紅蓮の炎に身を焼いている時に響き渡る消防車のサイレン。ベランダにて眺めれば、真夜中の空が燃えている。対岸の火事のように詠んでいるが、自分もまた、火事の真っ最中なのである。

 〈ストーブを蹴飛ばさぬやう愛し合ふ 櫂未知子〉という先行句もある。恋をすれば、地獄に落ちることも火あぶりの刑に処せられることも恐れはしない。地獄なんて当たり前。恋の地獄に比べれば火あぶりの刑など、甘んじて受けられるほどの苦しみを体験するのだ。一方で、実際に火事になったら世間に迷惑をかけてしまうという理性が残っているのも面白いところである。

 作中のストーブは、本当に蹴飛ばされなかったのだろうか。蹴飛ばして火事を起こしても正々堂々と火あぶりの刑を受けるほどの覚悟があったのではないか。だが、現実の火事の炎を見て、恋の地獄をさ迷う自分自身を冷静に見返したのだ。だからストーブも蹴飛ばさなかった。〈あそこも地獄なのかしら〉と少し余裕のある表現に至るまでには、火事を引き起こすほどの恋の地獄、もしかしたらそれ以上の地獄を味わっていたのかもしれない。

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


【篠崎央子のバックナンバー】
>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵
>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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