ほのぼのと
朝妻力(「雲の峰」主宰)
初めに
伊那男さんから「いま銀漢亭の内装を解体している……」と連絡のあったのは令和二年五月十八日の午後であった。新型コロナウイルスによる全国の緊急事態宣言が解除(五月二十五日)される一週間前のこととである。伊那男さんの声に混じって解体していると思われる音が伝わってくる。
おりしも朝妻の通っていた居酒屋「庄助さん」が自粛休業から再開する、その日のことであった。(結局「庄助さん」も昨年十月には廃業してしまったが……)。そんな時期であるだけに廃業に驚きはしたが、来るものがきたか……という第一印象であった。また「これを機会に俳句に専念したい」という伊那男さんの声を聞いてどこかホッとしたというのが実際であった。
初訪問
銀漢亭が開店したのは平成十五年五月のことである。知らせは受けていたのだが、上京は土日ということが多く、中々店に寄ることは出来なかった。
しかし平成十七年に俳人協会賞の予選委員を仰せつかり、年に三回ほど平日に上京できることになった。四月二十四日、予選委員会の打合せということで百人町の俳句文学館へ。終るのを待ちかねて銀漢亭に向かった。当日は白凰社の相田社長夫人が手伝いということで店におられた。創作小皿料理と銘打った伊那男さんの料理が酒にぴったり。やがて柚口満・武田禪次・孝子夫妻・飯田子貢・眞理子夫妻・杉阪大和さんなどが登場。大いに盛り上がった。
翌年になると銀漢亭の知名度はどんどん上がってきた。三月には毎日新聞に「今夜も赤ちょうちん」と題して紹介される。直後の四月、やはり予選委員会で上京したおりに山尾玉藻・中谷まもる氏と同道。この日は蟇目良雨・水田光雄・菊田一平・池内けい吾・柚口満・杉阪大和・河野彩・小滝肇・朽木直・谷口いづみさんなどがおられ、私共の同士でもある祐森省造・三代川次郎さんなども来店。おまけに私の長女の夫君である安藤君も登場。立錐の余地もないとはこのことかと思わせる状態であった。
休日営業
銀漢亭は土日が休みであった。しかし「春耕」の祝賀会や「雲の峰」の大阪勢と東京勢が合同で吟行した際など、無理に日曜日に営業してもらったこともあった。日曜日に「銀漢」勢と合同で吟行し終って銀漢亭になだれ込んだこともあった。伊那男さんにとっては大迷惑な話なのだが、特に大阪勢はあこがれの銀漢亭ということで常に多くの参加者があった。備忘録的に、あるとき参加したメンバーを上げておく。
岡田万壽美・岡本明美・川野喜代子・木村てる代・酒井多加子・杉江茂義・高野清風・中川晴美・藤田壽穂・渡辺政子・荒木有隣・伊藤 葉・腰塚弘子・小宮山勇・祐森水香・園原昌義・中野智子・松山美眞子・三澤福泉・三代川次郎・吉岡省吾・吉沢ふう子・伊藤たいら・久保一岩・進藤 正・池谷百々代……
中には故人となられた方もおり、年月の移り変わりを感じさせてくれる。また「春耕」同人総会の帰りに、今は亡き山崎羅春「あきつ」主宰、平賀寛子さんなどと杯を交わしたことも懐かしく思い出されるのである。
東京立ち飲み案内 出版祝賀会
銀漢亭の特徴とも言えるのがいつでも著名俳人、著名ライターにお会いできるということであった。俳人協会の会合のあとなどに同行した人を振り返ってみると、若井新一・橋本照嵩(写真家)・山尾玉藻・中谷まもる・打田翼・西村睦子・南うみを・大川畑光詳・中村与謝男・平石和美さんらがおられる。
あるとき、店の奥が妙に賑わしい日があった。聞いてみると吉田類さんの「東京立ち飲み案内 百花撩乱おすすめ72店」出版祝賀会とのこと。おすすめ72店のひとつ「銀漢亭」で祝賀会というのは、類さんもよほど銀漢亭が気に入っておられたのだろう。早速一冊求め、類さんのサインを頂いた。扉に「力さまへ 良きご縁でございます。吉田類」とサインのある「東京 立ち飲み案内」は家宝然と書架に鎮座している。この日は杉阪大和さんの第一句集「遠蛙」が上梓された日でもあった。
銀漢亭に立ち寄ったお蔭で、村上護・鈴木琢磨・水内慶太・稲田眸子・吉田貴紀・対馬康子・加茂一行・大野崇文・西村麒麟・天野小石・山田真砂年・斎藤朝比古・遠藤由樹子・卓田謙一・広渡敬雄・相沢文子・阪西敦子さんなどと親しく飲み交わすことができた。ライターや俳人のサロン的存在であった。
また「銀漢」関係者では小野寺清人・松崎逍遊・唐沢静男・畔柳海村・高橋透水・武井まゆみ・こしだまほ・川島秋葉男・松川洋酔・松代展枝・鈴木てる緒・谷岡健彦・森羽久衣さんなどにお世話になった。
俳誌「銀漢」、「そして京都」
俳誌「銀漢」が創刊されたのは平成二十三年のことであった。祝賀会は湯島で行われたが、棚山波朗・池内けい吾・蟇目良雨などの「春耕」勢に加え、石井「俳句研究」編集長・鈴木「俳句」編集長・対馬康子・櫂未知子さんなどなど豪華絢爛、きらびやかな祝賀会であった。
その数ヶ月前、「銀漢」創刊の話を聞いた私は、私の俳誌「雲の峰」に「銀漢亭こぼれ話」というエッセイを連載してくれるよう伊那男さんに依頼した。銀漢亭の賑やかさを目の当りにするにつけ、これを伊那男さんが書いて残しておいたらとてもいい記念になると考えたのである。
ところが伊那男さんには京都への思い入れが強い。サラリーマンとして赴任したのが京都であり、その地で奥様と知り合われた。結局「銀漢亭こぼれ話 そして京都」という題で、京都で出会ったこと、知ったこと、驚いたことなど、つまり銀漢亭と京都について書いて貰うことになった。二年間ほどと思っていたのだが、伊那男さんの人柄が率直に出ていることなどから評判が良い……。無理を言って五年間続けて貰い六十四回、平成二十四年に完結することになった。
この連載が一冊の本になった。『銀漢亭こぼれ噺 ―そして京都』である。吉田類さんが帯文を寄せてくれた単行本である。その中に「鮨屋の食器を貰う」という一章がある。伊那男さんは飲食店経営に興味があったことから知り合いの鮨屋(倒産寸前)で無給のアルバイトをすることになる。実はとてもややこしい、しかし痛快な出来事があり、この店が閉店したあと「板前さんとアルバイトの女性が段ボール十数箱に、まだ使えそうな調理器具、皿、小鉢などを私のために梱包して持ってきてくれていた」「食器類は十五年目に入った今も銀漢亭で使っている」とある。思えばこれが銀漢亭の出発点であった。(『銀漢亭こぼれ噺』は些少ながら在庫有り。希望者はどうぞ)
当然のことながら「銀漢亭こぼれ噺」には今は亡き奥様も登場する。病を得たこと、闘病の一端、そして永遠の別れ。逝去されて三日目の一月二十四日、高井戸の伊那男家に弔問させて貰った。涙をこらえるのが精一杯でまともに話ができなかった。
大寒の握り拳を弔意とす 力
こうして銀漢亭を振り返ると、伊那男さんにも大きな起伏があったことが思われる。また朝妻もとっても元気な時代があったということが分る。上京の少しの時間を狙って銀漢亭に行ったこと。多くの人たちとグラスを手に談笑したこと……。
いま、足腰が弱ってくると、なおさらのこと「神保町に銀漢亭のあったころ」が懐かしく思い出されるのである。
【執筆者プロフィール】
朝妻力(あさづま・りき)
1946年新潟生まれ。1977年「風」入会。1989年「春耕」入会、皆川盤水に師事。勤務先の富士ゼロックス社内で立ち上げた同好会誌「俳句通信」を、2001年に「雲の峰」と改称して結社化。句集に『晩稲田』『伊吹嶺』。大阪俳人クラブ副会長、茨木市俳句協会顧問なども務める。
【「神保町に銀漢亭があったころ」バックナンバーはこちら】
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