神保町に銀漢亭があったころ

神保町に銀漢亭があったころ【はじめに】こしだまほ

「とりあえず今週休みます」

こしだまほ(「銀漢」同人)

2020年5月14日午前9時半すぎ。神保町A4出口の階段を上ろうとすると、目の前に見覚えのある後ろ姿があった。白Tシャツにグレーの迷彩柄パンツ。黒い鞄を肩から斜めに掛け、キャリーカートを曳く右腕は逞しいが、背中がどこか寂しげに見えた。

俳句結社「銀漢」主宰・伊藤伊那男のもう一つの顔、「銀漢亭」主人が最後の片付けに向かう姿だった。近々、「銀漢亭」の撤去が始まると聞いた私は、出社前に様子を見に行くところで、主宰と遭遇したのだ。すぐさまご挨拶をし、看板を取り外すまでの「銀漢亭」最後の日々の撮影許可をいただいた。以降、21日の店舗撤去までを、出社前や昼休みを利用して写真に収めた。その際に感じたことを思いつくままに綴りたいと思う。

銀漢亭のシャッターをあける伊藤伊那男「銀漢亭」亭主

14日(木)朝。主宰が普段と変わらない様子でシャッターを開けた。シャッターには、3月末に「銀漢亭」が休業した時に貼り出した手書きの「とりあえず今週休みます」があった。その後も休むことになったために、誰かが「今週」のあとに「も」を書き足していた。

店内に入ると、見慣れたカウンターや半円形のテーブルに、食器などが所狭しと並べられていた。主宰は、コロナ感染が広がり始めた3月末には店を閉める決断をしておられたとのことで、このころにはもう片付けはほとんど終わっていた。生ビールのサーバーの中身も、前日のアルバイトさんおつかれさま会で飲み干されていた。

壁に飾ってあった写真などの額は外されていたものの、カウンター後ろの手書きメニューはそのまま。カウンターを挟んで主宰と向かい合うと、今にも主宰がグラスを並べ、シャンパンをお注ぎになりそうで、まだ店が無くなるという実感が全く湧かない。

「とりあえず今週(も)休みます」の貼り紙。しかし、このまま店が開くことはなかった。

天井に張り巡らされたブルーのイルミネーションライトを点けてもらった。趣味として、また銀漢俳句会の俳誌『銀漢』のカメラマンとして、よく店に集う人々を撮っていた私にとって、この、ブルーライトは、まさに天井を彩る天の川のようで、「銀漢亭」での様子を撮るのには欠かせないものだった。

奧のテーブル付近からカウンターにいる主宰を撮っていると、様々な場面が蘇ってきた。超結社句会の静まりかえった選句風景、パーティーで歌い踊る俳人たち……。このライトの下で写すと、絵になる人たちがますます、美しく輝いて見えたものだった。

主宰は「17年前の5月7日に店を開け18年目。思い出はいろいろあるけど、年を考えると(閉店は)潮時だったね」ときっぱり。さらに「これからは価値観が変わるだろうから、飲食店は大変だよ」と続けられた。先を見据えた眼差しと言葉に説得力があった。

昼。編集部の数人が来ていた。テーブルの食器は、どれでも好きな物を持って行ってよいというので、馴染みのある小鉢や皿を数枚いただいた。台東区谷中の夕焼けだんだん上で居酒屋を始めた伊藤政三さんも、皿などを何セットか引き継いだ。句会後の懇親会で囲んだ大皿小皿、小銭を入れる籠、オリジナルカクテル「銀漢ブルー」などが、俳人が集う時などに使用されているようである。

客の誰もいない真昼にともる銀漢亭の「天の川」

18日(月)朝。雨。いよいよ解体業者が入る。まずは「銀漢亭」の看板の取り外し。主宰と共に、業者さんの作業を見守るが、コンクリートの壁にしっかりと取り付けられているので簡単には外せないとのこと。この看板は、主宰が俳句を始められたころからの知り合いであった「春耕」の故前川みどりさんのデザイン。また、発行所に飾りたいという編集部の要望もあり、取り外しは後日に見送りとなった。

19日(火)。気になって、朝、昼、夕と解体作業を見に行く。朝、解体2日目にしてもう入口付近はほとんど何も無くなっていた。そして昼には、朝、バラし始めていた中央の半円形テーブルが撤去されていた。解体作業を見せていただいているお礼にお茶を差し入れし、改めて看板を外す日時を確認した。

21日(木)朝。「銀漢亭」に到着すると、店内はがらんどうになっていて、あとは看板を外すのみ。ほどなく、主宰が後ろ手をしながらにこにこと登場し、「銀漢亭」の古くからの常連だった故木誠さんも来て、3人で見守る中、おもむろに看板外しが始まった。リーダー格の男性が、丁寧にていねいに看板の右下から、四隅の接続部分を道具で外してゆき、壁にひとつの傷も残さずに、最後は抱きかかえるようにして外してくださった。  

外された看板を主宰に持っていただき撮影した時、嗚呼これで「銀漢亭」は本当に無くなってしまったのだと実感した。

全てを撤去した後も「とりあえず今週休みます」の紙は貼られたままだったが、それもいつの間にか無くなっていた。

いつでも主宰や仲間たちに会えた「銀漢亭」。この安息の場所を失った喪失感だけが、未だに拭えないでいる。

解体中、下ろされた「銀漢亭」の看板を抱えてほほえむ伊藤伊那男氏


【執筆者プロフィール】
こしだまほ 
神奈川県逗子市出身、在住。平成21年、仕事で知り合った朽木直さん(「銀漢」同人)に誘われ、銀漢亭で作句開始。22年、「銀漢俳句会」創立に参加。24年、俳人協会会員。


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