神保町に銀漢亭があったころ【第1回】武田禪次

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俳人「銀漢亭」の誕生

武田禪次(「銀漢」編集長)

伊藤伊那男さんの「銀漢亭」は、千代田区神田神保町2-20東明ビル1階にあった。「あった」と過去形で綴ることによって、いろいろなことが思い浮かんでくる。

一番印象に残っているのは、開業当初つまり17年前になるのだが、店の一番奥にあった黒い机に、奥さんを中心に伊那男さんのご家族が座っていて、皆さんが黙ったまま入口の方へ顔を向けている光景に出くわしたことだ。

当時は失われた10年と言われた経済不況下で、特に私の仕事であった鉄鋼流通は不況の真っただ中にあった。大胆な構造改革をしなければ生き残れない状況にあり、二つの総合商社の鉄鋼部門を切り離して合併させ、新しい会社を立ち上げている最中であったが、超大型倒産会社の整理を終えた伊那男さんが始めた店のことが気になって、挨拶に行ったように記憶している。

その時の店の中の空気は、正直に言えば明るくもなく賑やかでもなかった。また暗かったかと言えばそれも違った。静かな緊張感と言ったらいいだろうか。それは、奥さんの光代さんから発せられていたオーラのようなもので、今にして思えば、光代さんの家族を守りながら生きるという毅然とした決意であったのだと理解できる。その時、伊那男さんは厨房に居たと思う。

光代さんは、野村證券社員であった伊藤正徳さんと結婚した。しかし波乱に満ちたご主人の生涯に連れ添って、その時は「銀漢亭」亭主となったご主人の店に黙然と座っていたのだ。光代さんとは伊那男さんについて話をする機会は得られなかった。

数年後、癌によって光代さんは別世界へ旅立たれてしまった。伊那男さんの第二句集『知命なほ』は光代さんへの賛歌であり、絶唱である。今は、「銀漢亭」のドアを開けた時のその一瞬の光景が、俳人伊藤伊那男誕生の瞬間であったことを確信している。伊藤光代さんという磐座のような存在がいつでも伊那男さんを支えているのだ。

「銀漢亭」閉店後、解体されていく店を見るにつけ、「万物流転」という言葉を噛み締めた。これからは、伊那男さんには俳人「銀漢亭伊藤伊那男」として活躍してもらいたい。光代さんの見守る中で。

(銀漢亭で亭主・伊那男さんと談笑する武田禪次さん)

【執筆者プロフィール】
武田禪次(たけだ・みねつぐ)
1945年7月12日生。1968年慶應義塾大学経済学部卒。三菱商事入社。2010年退社後、「銀漢俳句会」設立に参加、編集長。2015年(株)北辰社設立、代表取締役。「三田俳句丘の会」編集長。句集に『黄沙』(花神社、2004年)『留守詣』(北辰社、2016年)。随筆に『変る中国変らない中国』(角川学芸出版、2007年)


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