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蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【季語=結氷期(冬)】

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埋火も消ゆや涙の煮(にゆ)る音()ちて大音響の結氷期)

富沢赤黄男(とみざわかきお)

(後編)
前編はこちら


 ところで、現在といえば何といってもやはり散文の時代ではある。 文学においては特に尨大な量の現代小説の表現上の多様な試みを抜きにして、共感覚表現を語るのは片落ちというものであろう。 そこには、現代俳句の共感覚表現を考える上でなにが そこには、現代俳句の共感覚表現を考える上でなにがしかのヒントがあるのではないかと思っていた。 そこで、日本語の表現研究の第一人者で修辞学にも造詣が深い中村明による『比喩表現の世界』(筑摩書房、2013年)を繙き、「感覚の表現」の章を読む。

 するとそこには、現代の「作家が作り出したイメージの沃野を訪ね、鮮烈なものの見方に出会う」との帯文に違わず、長短の散文の比喩表現の文例があるわあるわ。 その中から、これは共感覚表現だと見られる文例の一部を抽き、それに当たる部分をごく短く列記すると次のようになる。 初めの括弧内は当該部分に係る主部または情況描写の要約、末尾のそれは諸感覚の組合せである。

  ○ 三島由紀夫の『花ざかりの森』に、「(秋霧の一団が)背戸をとおりぬけていくのがきこえた」(視覚と聴覚)

  ○同『花ざかりの森』に、「(老人の寝起きのときのかすれ声の) 柔和な、たとえばかすれ勝ちの隅の筆跡のような、郷愁的なまでの発音」(聴覚と視覚)

  ○梶井基次郎の『城のある町にて』に、「(数里離れた市の花火の) 綿で包んだようなかすかな音」(視覚と聴覚)

  ○幸田文の『流れる』に、「(芸者屋の主人が練習する唄声には)ざらつく刺激がある」(聴覚と触覚)

  ○同『流れる』に、「(隙間風が)梨花の背なかへ細長いつめたさを吹きつけてくる」(視覚と触覚)

  ○田宮虎彦の『琵琶湖疎水』に、「(生粋の大阪弁が)餅肌の様にねばねばと舌たるく、言葉同士がもつれあう様にきこえた」(聴覚と触覚と視覚)

  ○円地文子の『女坂』に、「(その女の)顔も手も足も皮膚一様にどこも桜の花びらのような薄花色に匂っていた」(視覚と嗅覚)

  ○村上春樹の『遠い太鼓』に、「重くぬめぬめとした匂いが、はっきりとした比重を持って断層のように浮遊している」(触覚と嗅覚と視覚)

  ○林芙美子の『清貧の書』に、「(部屋の中は)馬糞紙のようなボコボコした古い匂いがこもっていて」(視覚と触覚と嗅覚)

  ○有島武郎の『生まれ出づる悩み』に、「(米の飯の味は)無味な繊維のかたまりのような触覚だけが冷たく舌に伝わってくる」(味覚と触覚)

  ○大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』に、「(冬の夜霧の)冷たい空気が硬い粉のように瞼や頬に痛かった」(視覚と触覚)

  ○内田百閒の『掻痒記』に、「(頭の痒さは言語に絶して)自分の頭が三角になる様だった」(触覚と視覚)

  面白くて、読者諸賢に一息ついていただきたいばかりに、引用が長くなりすぎたようだが、これらの文章のいくつかは、それが共感覚表現であることも気付かずに、ちょっと不思議だがなるほどと合点のゆく表現として、読後の頭中にとどまってきた気がするのである。それとともに、現代人の内感表現が私たちと同じ地平で繊細さと大胆さを一段と強め、鮮烈なグレアリング・エラー(GE)に近い表現領域を増幅し拡大し、豊穣さを増していることにも気付く。本書のキャッチ・コピーである「咲きほとばしる夢のしたたり」は、著者の思いを凝縮した滴りであろう。

 とはいえ、ここに表れている比喩のほとんどが直喩であり、共感覚俳句の多くが隠喩であることとの違いは明瞭である。短詩である共感覚俳句が、何らかの「比喩を示す辞」を用いることになる直喩の、陥りやすい冗長さを退けているのとは対照的だ。それはそうだが、俳句一般における直喩の有効性を否定するものではなく、私自身、数十にのぼると見られるその「比喩を示す辞」を活用することによる直喩の有効性を、高く評価する一人である。前掲の口語の名散文が示しているように、隠喩に勝るとも劣らぬGEを打ち出すことも決して不可能ではないからだ。

 そうした点も含めて、現代の共感覚俳句を眺望するうえで、ぜひとも銘記していただきたいのは、本書の著者がその序文の最後に感慨ぶか気にしるした次の一文である。

 陳腐な比喩は別として、そもそも比喩表現は、ある対象をもともとそれと似たものに喩えるのではなく、その対象を別のカテゴリーで捉えようとする試みだったのではないか。レトリックというものが本来そうであったように、比喩表現もまた、そういう一つの考え方の試行であり、世界解釈の手段として力を発揮する。類似をなぞるのではない。すぐれた比喩は新しいものの見方の開拓であったことに、今あらためて気づくのである。

 さて、現代の繊細さと大胆さの合奏を隠喩で表現し得たともいえる代表格の共感覚俳句が、冒頭に掲げた富沢赤黄男の「蝶堕ちて」句だ。太平洋戦争勃発直前である1941年8月発行の句集『天の狼』所収である。青春期に昂奮して何度も読み返したこの一句、その後数十年を経た現在でも私の胸裡に鳴り響く視覚と聴覚の大合奏である。そもそも、ほとんど重さがないといってもよいほどの冬の蝶が堕ちて「大音響」を発するなどということは、どこのどのような地形の湖か沼の結氷期でのことかを問うた人がいただろうか。巨大なクレバスの間へ落下する水塊ならばいざ知らずである(ちなみに資料により「堕」には「墜」や「落」の字が当てられている)。

 にもかかわらず、私たちがこの客観的でも写実的でもないどころか、途方もない誤謬でしかないと感じている作者の心象風景に、 なにゆえにたちまち感応し衝撃を受けるのか、それは 私たちが、そこから連想する何物かに触発された一次感情を揺さ振られ、感応をせざるを得ないからであろう。 その「何物」とは何か。おそらく芭蕉も蕉門十哲も蕪村も一茶も答えられまい。 いや、もし今を生きていたなら、その卓越した隠喩によって私たちを震撼させたであろう。それが現代である。

 私たちが日頃、ほとんど取るに足らないと思っている微小な外部からの刺激によって、物や心の緊張状態が弾け、均衡を失い、脆くも破損したり崩壊したり破壊されてしまうことを体験し、記憶しているために、 現代人が半ば潜在的に抱え持っている不安や恐怖を引き起こすもの――例えば蟻の一穴、花火から……核物質、核兵器に至るまで、あるいは個人的な友情、愛情から……国際紛争、戦争に至るまで、がそれだ。

 くどいようだがこの「大音響」、赤黄男がそのように表現する以前には似てもにつかない漠たるものだった。赤黄男がそれに「大音響」と名付けた瞬間から命がかよい、 私たちの内面にそういう音響を聞き付ける耳が生まれたのだ。 私たちは赤黄男が摑み取り、共感覚を踏まえた大鉈を振るってカテゴリー転換を果たした張喩ともいえる隠喩によって、新たに名付けた「大音響」を、新しいものの見方として心に刻むのである。

 さらに言えば、この「大音響」を要石に抱え持つことによって堅固な均衡を得たこの句また、加藤周一が指摘した「大理石のようにかたく、動かしがたいもの・・であり、秋元不死男が推奨した「物の如きたしかさ」である。それは時を遡れば、メルロ=ポンティの「主ー客を越えた豊饒」であり、その遥か上流からは「物の見えたる光」「黄奇蘇新」の芭蕉が見えてくる。

 現代の共感覚俳句を『覚えておきたい極めつけの名句1000』(前出)から抽き出したリストは次のとおりだ。その数の合計32句は芭蕉一人の38句よりも少ない。 しかしその中身を見れば、各俳人を代表するような秀句も多く含まれている。 その点からいえば、先に芭蕉の句に関して述べた通り、共感覚俳句の価値は量ではなく質の価値である。とりわけ現代俳句についていえば、希少価値が含まれるであろう。 リストについての注意書きは前掲のものと同様なので、煩雑を避け、ここでは割愛する。

 (1)視覚と聴覚(または聴覚と視覚)句

   白樺を幽かに霧のゆく音か   水原秋櫻子(隠喩)

   葉桜の中の無数の空さわぐ   篠原 梵 (隠喩)

   蝶堕ちて大音響の結氷期    富沢赤黄男(張喩・隠喩)

   棺の中物音もなし菊日和    原  裕 (喩なし)

   春昼の指とどまれば琴も止む  野澤節子 (喩なし)

   天に穴ありて落ちくる雲雀かな 野村喜舟 (隠喩)

   向日葵の大声で立つ枯れて尚  秋元不死男(隠喩)

   新涼の水にこつんと鬼やんま  中 拓男 (声喩)

   大鯉のぎいと廻りぬ秋の昼   岡井省二 (声喩)

   霜柱鋼のこゑをはなちけり   石原八束 (隠喩)

   厚餡割ればシクと音して雲の峰 中村草田男(声喩)

   湖といふ大きな耳に閑古鳥   鷹羽狩行 (隠喩)

   日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり 松瀬青々 (隠喩)

   囀をこぼさじと抱く大樹かな  星野立子 (隠喩)

   虫の戸を叩けば妻の灯がともる 古館曹人 (隠喩)

   霜柱俳句は切字響きけり    石田波郷 (隠喩)

 (2)視覚と触覚(または触覚と視覚)句

   新涼や白きてのひらあしのうら 川端茅舎 (喩なし)

   人体冷えて東北白い花盛り   金子兜太 (喩なし)

   月光にぶつかつて行く山路かな 渡辺水巴 (隠喩)

   ラグビーの頬傷ほてる海見ては 寺山修司 (隠喩)

   をりとりてはらりとおもきすすきかな  飯田蛇笏(声喩)

   外にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女(直喩)

   蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな  芥川龍之介(直喩)

   さはやかにおのが濁りをぬけし鯉 皆吉爽雨(隠喩)

 (3)視覚と嗅覚(または嗅覚と視覚)句

   押さへてもふくらむ封書風薫る  八染藍子(喩なし)

   菊人形たましひのなき匂かな   渡辺水巴(隠喩)

   短夜のあけゆく水の匂かな    久保田万太郎(隠喩)

   香水の香ぞ鉄壁をなせりける   中村草田男(隠喩)

 (4)視覚と味覚句

   そら豆はまことに青き味したり  細見綾子(隠喩)

 (5)触覚と味覚句

   夏場所や汐風うまき隅田川    牧野寥々(隠喩)

 (6)聴覚と嗅覚と視覚句

   雷去りぬ雷のにほひの戸をひらく 篠田悌二郎(隠喩)

 リストのとおり、現代の秀句中の共感覚俳句の総数は32句。 そのうち、(1)視覚と聴覚(または聴覚と視覚)句が17句で最も多く、次いで(2)視覚と触覚(または触覚と視覚)句が8句、(3)視覚と嗅覚(または嗅覚と視覚)句が4句、以下、(4)視覚と味覚句、(5)触覚と味覚句、(6)視覚と触覚と聴覚句、の(4)〜(6)が各1句(計3句)となった。以前掲げた芭蕉の句のリストとの比較では、(1)〜(3)の数の順位がまったく同じ、(1)の数と割合が芭蕉を上回り、(2)と(3)の数と割合が芭蕉を下回った。大きな違いがあったのは(4)〜(6)その他の組合せだ。数、割合ともに芭蕉を大きく下回った。

 比喩の種類別に句の数を見ると、まず隠喩が19句と約6割を占めている。 共感覚俳句と隠喩との深い関係は芭蕉を以来健全である。 そのほか、声喩が5句、喩なしが5句、直喩が2句、張喩が2句、張喩・隠喩が1句となり、大多数の8割以上が何らかの比喩表現によって詩の核心を得ている点も、芭蕉いらい似通っている。 やや仔細に見ると、隠喩の割合が芭蕉の7割以上をやや下回ったこと、声喩と喩なしが芭蕉を上回ったことなどが指摘できよう。

 現代の共感覚俳句が芭蕉のそれと大きく異なっているのは、隠喩の中身である。 先述のとおり芭蕉の隠喩(それは芭蕉以後にもかなり受け継がれているが)では、 まるで果実の種のような存在として動詞を生かしきった真の「動詞の活用」が目立ったが、 現代の共感覚俳句にはその遺産はあまり継承されていない。 赤黄男の「大音響」がそうであったように、「動詞の活用」に代わるものは「名詞の活用」である。

 その傾向をリストから拾い出してみると、「葉桜の」句中の「無数の空」、「天に穴」句中の「穴」、「向日葵の」句中の「向日葵の大声」、「霜柱」句中の「鋼のこゑ」、「湖と」句中の「(大きな)耳」、「虫の戸を」句中の「虫の戸」、「さはやかに」句中の「おのが濁り」、「香水の」句中の「(香の)鉄壁」、「雷去りぬ」句中の「雷のにほひ」、といったところがそれだ。 一度読んだら忘れられない秀句の核心である。 現代の共感覚俳句の規範のような存在として、赤黄男句を冒頭に掲げた所以でもある。芭蕉の「しみ入」は赤黄男の「大音響」なのだ。

 これらの名詞あるいはB of A型の名詞句が、繊細にして大胆な力感に溢れているのは、それらが予め存在しているものをなぞらえたのではなく、そうとしか名付けられないようなものをそう名付けているからである。 現代レトリック(修辞)研究の第一人者であった佐藤信夫らによる大冊『レトリック事典』(佐々木健一監修、大修館書店、2010年)は、その「隠喩」の項目で、川端康成の小説『雪国』のかの有名な書き出し「国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」を取り上げ、次のように分析し総括している。

 それによると「夜の底が白くなった」と表現されているものは、大地がまずあって、それが「夜の底」と呼ばれるのではなく、「夜の底」としか名付けられないようなものとして、大地が現れてきたのだ、と述べて次のとおり結ぶ。 隠喩というものの真髄であろう。

 直喩が「なぞらえる」ものであるのに対して、隠喩は「名付ける」、と言うことができる。 そして、最も表現的な隠喩は、その対象や事態を初めて存在にもたらすような、創造的な名付けなのである。

 実際に体験した共感覚に触発されたのか、現代俳人の鋭敏な作為が共感覚の比喩を呼んだのかを穿鑿することには、もはや意味がない。 かつてゴッホには風景が本当に黄色く見えていたとする説が話題を呼んだが、私たちが強く惹かれて関心を抱くのは、その画面に現れた絵画のモチーフ(主要な題材・思想)やフォルム(形・様式)やトーン(色調)やバルール(色価)である。 それと同じように、私たちはいま生理学や医学を話題にしているのではなく、言語芸術の中に忽然と現れる共感覚と比喩の密接な関係やその創造性について考察してきたのである。

 これはまた、詩に限っての話ではない。私たちの言葉の対象になるもの、なり得るものの数は無限だが、言葉の数が有限だといわれるように、現代に生きる私たちにとって言葉は明らかに不足している。例えば、 である。 私たちは日常の食べ物の味ひとつ満足に言い表すことができない。 いま朝食のために卓上に置かれている海苔の味でさえ、正確には人に伝えられないだろうことに改めて驚く。 そこに創造的な比喩表現の最大の存在理由があろうし、文化的価値の高さがある。

 いみじくも中村明が指摘した比喩表現の「世界解釈の手段としての力」という評価とともに、現代の言語学者・修辞学者たちが、言語表現としての比喩の力を見直し、単なる喩や言い換えやなぞらえや修飾などとは異なり、より本質的かつ積極的な「世界把握」「世界整理」「世界認識」の新しい手立てとして捉え直していることは喜ばしい。 その意義の深さを強調するとともに、まだまだ稀少といえる共感覚表現の新たな掘り起こしへの筆者の期待を付け加えて、この稿を終えることにしたい。

望月清彦


【執筆者プロフィール】
望月清彦(もちづき・きよひこ)
1935年東京都三鷹市生まれ。東京都在住。俳誌「百鳥」同人。総合誌「中央線」同人。1990年俳誌「裸子」年度賞・身延山賞、2008年角川書店賞、2011年毎日俳壇賞、2012年読売俳壇年間賞、2013年朝日俳壇賞、2020年読売俳壇年間賞受賞。同年NHK全国俳句大会龍太賞入選、2021年同龍太賞入選。句集『遠泳』(読売俳句叢書第Ⅰ期第2集)現在『読売年鑑』文学分野載録俳人、俳人協会会員。


望月清彦の自選10句】

夕燕過ぐ海わたる迅さもて

白梅のほか隙間なく暮れにけり

一笛に喜怒転じたり薪能

幾山河越え来しごとく祭笛

青春の分水嶺の書を曝す

遠泳の沖をみず岸かへりみず

秋思ともおのれに帰りつきしとも

いづこにも影を落とさず鰯雲

叩きたる焚火形相変へにけり

鷹の眸(め)とわが眸の間(あい)にちりもなし



【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】

>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ    芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉      芭蕉
>>〔4〕埋火もきゆやなみだの烹る音      芭蕉
>>〔5〕蝶落ちて大音響の結氷期     富沢赤黄男

【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】

>>〔1〕秋灯机の上の幾山河        吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子
>>〔3〕後輩の女おでんに泣きじゃくる  加藤又三郎
>>〔4〕未婚一生洗ひし足袋の合掌す    寺田京子

【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】

>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊     杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ  後藤比奈夫
>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す   仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒     山口青邨

【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】

>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな   永田耕衣


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