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秋灯机の上の幾山河 吉屋信子【季語=秋灯(秋)】


秋灯机の上の幾山河)

吉屋信子


世のなかの、日常的に俳句を読む習慣のない人びとは、俳人の名をどこで知るのだろう。中年期にさしかかるまで俳句と縁がなかった私の場合、情報源はまず国語の教科書と国語便覧。次が小説家による随筆や評伝だった。吉屋信子による俳人の評伝集『底の抜けた柄杓』を読んだのは二十代前半の頃だっただろうか。それらに小説的脚色がかなり施されていることを今では知っているけれど、富田木歩や渡辺つゆ女など教科書には出てこないような俳人の作品と生涯に触れることができたのは、同書のおかげとも言える。

 秋灯机の上の幾山河

自身も句作に熱心だった吉屋信子の代表作として知られる句。

古びた机の面が秋の灯に照らし出されている。その前に座して過ごしてきた長い月日と、そこから生まれたさまざまな作品に思いを馳せ、はるかな山河を幻視している、そんな人物の後ろ姿が浮かんでくる。筆一本で時代と切り結んできた矜持を感じさせ、小説家の代表作にふさわしい句だ。

ところが不思議なことに、彼女の唯一の句集『吉屋信子句集』(1974年、東京美術)にはこの句が見当たらない。代わりに添削前の「秋灯下古りし机の幾山河」が掲載され、詞書として「のちに“机の上の幾山河”」とある。

吉屋自身の手で選句や編集が行われていたなら、おそらく最終形で掲載されていたのではないかと想像するが、彼女は自ら句集を編むことができなかった。『吉屋信子句集』は、吉屋がいつか句集にするつもりで書き溜めていた句を、その死後、事実上の妻だった千代が周囲の手助けを得て編集・刊行したものなのだ(余談だが、千代のあとがきには吉屋への思いが溢れていて胸を打つものがある)。

掲句にはいいようのない厳しさと寂しさがある。机の上には文壇の友人たちもパートナーの千代もいない。ひとり筆を握り、孤独の中で格闘しながら物語を紡ぎ出すしかないのだ。「幾山河」はそのようにして過ごした長い日々の暗喩でもあるだろうし、少女小説から歴史小説、幻想小説にまで及ぶ吉屋の小説世界の広大さを示しているようでもある。幾山河、の言葉からは若山牧水の

 幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ國ぞ今日も旅ゆく

が思い出されるが、吉屋もこの歌を意識していたかもしれない。ものを書くということは誰にとっても孤独な旅である。

実作者として掲句を読むと、上五を「秋灯や」としたほうが姿がより整うのではないか、などとおせっかいなことを思わないでもない。ただ、名詞を重ねることによって生まれるこの重量感が、どっしりとした机や分厚い書物の質感を思わせるのも確かだ。

(町田無鹿)


【執筆者プロフィール】
町田無鹿(まちだ・むじか)
1978年生まれ。「」「楽園」所属。2018年、第2回俳人協会新鋭俳句賞受賞。俳人協会会員



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>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石


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