ハイクノミカタ

埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉【季語=埋火(冬)】


埋火も消ゆや涙の煮(にゆ)る音埋火もゆやなみだの(にゆ)る音)

芭蕉


量より質の共感覚俳句――芭蕉句のリスト

 芭蕉以前の俳諧に共感覚表現があったかどうかは目下のところ詳らかではなく、識者に問うてみたいところだが、私の知るかぎり和歌には確かにあった。 時はかなり遡り新古今の時代。名歌としても知られる藤原定家の次の歌だ。

  風の上に星のひかりはさえながらわざともふらぬ霰をぞ聞く

 知の巨人ともいわれた加藤周一はその好著『文学とは何か』(角川選書、1971年)の「詩について」の章の三節「中世の詩精神」の中で「時代を越えるもの」としてこの歌を取り上げている。 氏によれば、近代ヨーロッパの詩人がギリシアの甕を見つめながら、「聞こえぬ音楽」を感じたように、 中世日本の詩人は星空を眺めながら、「ふらぬ霰」の音を感じたにちがいないとして、次のように言う。

  吹き過ぎる風は、われわれの頬にふれ、つめたい星の光は、われわれの頭上に輝く。この歌をくり返しよんでいると、われわれの耳には霰の音がきこえてきます。降らぬ霰を聞くというのは、比喩ではないようです。(中略)その感じは三十一文字の詩句の中に定着され、実体化され、移りゆく時を越えて、われわれの前におかれている。 それが詩というもの(・・)、大理石のようにかたく、動かしがたい作品です。

 言うまでもなくここに詠われた詩の核心をなすものは、「星のひかり」(視覚)と「霰(の音)」(聴覚)が同時に感覚され合流した共感覚表現である。 加藤はさらに、このような定家の作品は「表現の完璧さにおいてほとんど純粋な(・・・)詩に達したと絶讃する。 これらの評言、とくに引用文の後半(中略以下)は、ほぼそのまま先々週取り上げた芭蕉の「閑さや」句にも当て嵌るであろう。 『去来抄』によれば、芭蕉が定家を高く評価していたことは明らかだが、もとよりこの歌の影響を受けたどうかは定かではない。

 さて、加藤は「詩というもの(・・)」と述べた。この考え方を最初に出したのは、フランスの文学者・哲学者のジャン=ポール・サルトル(1905-1980年)である。 極度に要約していえば、私たちの日常会話の言葉や散文(文学上のものを含む)のような通信・伝達の用に供される言葉は、シーニュ(記号)であるのに対して、詩はそれ自体で充足した「もの」だという。 わが国でも戦後ほどなく出版された『シチュアシオンⅡ』邦訳『文学とは何か』)は、ジャン・アルチュール・ランボーの詩のフレーズをもとに、その長大な文学論を展開しており、私は学生時代に何度となく苦汁を嘗めながら読破した記憶がある。

 加藤が述べるとおり、定家の歌が「大理石のようにかたく、動かしがたい」「もの」であるとするならば、一個の隠喩を革新に、より以上に短く動かしがたく凝縮された芭蕉の句は、より以上に堅固で充実した「もの」である。 対話でもなく、ありのままの叙述でもなく、短い暗示で表現することを身上とする俳句の比喩について、かつて俳句の「物の如きたしかさ」を推奨した秋元不死男が、実作者の立場から述べた次の一文の、事に即したタイト感は忘れられない。好著『俳句入門』(角川選書、1983年)の「俳句の表現」の章にある。

 比喩するものと比喩されるものが適切無碍(むげ)で、しかも飛躍しながら高いところで吻合(ふんごう)しなければ、比喩は何らイメージをつくることなく、単に羅列の世界、説明以下の形容で終わってしまう。

 文中の「比喩」はそのまま「隠喩」と読み替えてもよさそうだ。また、「飛躍しながら高いところで吻合」とはどういうことなのか。 このあたりをもう少し、私なりに噛み砕いてみたいのだ。まず、「吻合」は二つの事柄がぴったりと一致すること。それはよいとして、ちょっと厄介ではあるが隠喩そのものを適切に読み取るうえで、この際、是非とも触れておきたいのが以下の諸点だ。

 そもそも引用について『ブリタニカ国際大百科事典』には、次のようにある。「比喩の一つで、「氷の刃」「彼女は天使だ」のように、「〜のような」にあたるを語を用いないたとえ。これに対して、「氷のような刃」「彼女は天使みたいだ」などの表現を直喩(シミリ)という。隠喩の目的は、上の例ならば、刃や女性の性質、状態を直喩よりもいっそう印象深く聞き手や読者に伝えることであり、そのためには、使い古されない新鮮なたとえが必要とされる」と。基礎的な解説から後半の隠喩の目的へ、不死男の「高いところ」が少し見えてくる。

 一方、『コンサイズ・オックスフォード辞典』のメタファーの項には、「名称または叙述の語を、それが字義通りには適用されない対象に適用すること」とあり、その主要な型としてグレアリング・エラー(紛れもない誤り)を挙げる。これは日常、私たちが常識的に使っている言葉の意味からすれば明白に誤っていても成立してしまう表現を指している、といえよう。

 これらを総括していえば、より印象深く新鮮な表現へと飛躍し、より高次で創造的な表現により対象(あるいはその内感)に肉迫し、しっかりと吻合をさせるのでなければ、詩としての隠喩は存在理由を失ってしまうということだ。 まさしく俳句の比喩についての不死男の見解と吻合するし、この稿で折に触れて述べてきた芭蕉の共感覚俳句の比喩(主として隠喩)についての見方とも矛盾しない。

 さらに付け加えるならば、この型破りの新味ともいうべきものは、芭蕉の「黄奇蘇新」の提唱(『笈の小文』)とも照応するもの。芭蕉曰く。その日は雨が降って晴れたとか、どこに松の木があったとか、何という川が流れていたとか、誰でもいえそうなことはつまらなく、「黄奇蘇新のたぐひにあらずばいふ事なかれ」と手厳しい。中国の黄山谷の詩に見られるような珍しさや、蘇東坡の詩に見られるような新しさがなければ、書き表すべからず、というのである。

 これは紀行文に対する芭蕉の意欲を示したもので、自ずから大景がイメージされるが、冬の句として冒頭に掲げた芭蕉の共感覚俳句はどうだろうか。 芭蕉の内面、いや内感に根ざした小さな景色とかいいようがない句にもかかわらず、以上で述べてきた隠喩の本質は通底している。

 この句、「ある人の追善に」と前書があり、また中村俊定校註の『芭蕉俳句集』(岩波文庫、2015年)によると、『笈日記』には「少年を失へる人の心を思いやりて」との前書があると脚注が付されているので、男児を失った家族の追善供養に立ち会った芭蕉の心象の句であろう。 その夜が更けて、埋火もはや消えてしまったというのに、またもおとずれる愁嘆場が想像される。 とりわけ母親であろうか。泪にくれ、泪に沈み、泪の底にいるその姿がいたわしい。泪は目から流れ出るだけではなく、相貌を歪め、鼻腔に喉に溢れては噎ぶ。 その音を「烹(煮)ゆる」と捉えた。 この視覚と聴覚の共感覚を洩れなく掬い取ったともいえる印象深い一語が、常用語としては明白に誤りでありながら、対象と見事に吻合した隠喩なのだ。

 以下は、多少の遺漏はあろうが、芭蕉の全句中から、これまでに述べてきた私の規準に従って抽き出した共感覚俳句のリストである。 この稿に既に掲出した句も、リストとしての完結を期して再掲した。 句の表記、作句年代順の配列は、底本とした『芭蕉俳句集』(前出)によった。 句に付されている前書は、句の内容に直接ひびくと思われるもののみを括弧内に付し、他はすべて割愛した。 各句に含まれ、句の核心をなしている比喩の種類を、句の左側の括弧内に付したが、その多くが隠喩であり、ごく一部が活喩、張喩、声喩、喩なし、であった。

 リストのとおり、芭蕉の共感覚俳句の総数は38句。そのうち、(1)聴覚と視覚(または視覚と聴覚)句が15句で最も多く、 次いで(2)視覚と触覚(または触覚と視覚)句が11句、(3)視覚と嗅覚(または嗅覚と視覚)句が5句、以下、(4)嗅覚と聴覚句、(5)嗅覚と触覚句、(6)聴覚と味覚句、(7)聴覚と触覚句、 (8)触覚と味覚句、(9)視覚と触覚と聴覚句、(10)嗅覚と視覚と触覚句、の(4)〜(10)が各1句(計7句)となった。 共感覚俳句の幅の広さがうかがわれる。

 (1)聴覚と視覚(または視覚と聴覚)句

   霜を着て風を敷寝(しきね)の捨子哉            (隠喩)

   海くれて鴨のこゑほのかに白し(海辺に日暮(ひぐら)して) (隠喩)

   木枯やたけにかくれてしづまりぬ(竹畫讃)    (隠喩)

   手鼻かむを(お)とさへ梅の盛り哉        (隠喩)

   ほろほろと山吹散るか瀧の音           (声喩)

   須磨寺や吹かぬ笛聞く木下やみ          (隠喩)

   埋火もきゆやなみだの(にゆ)る音           (隠喩)

   (しづか)さや岩にしみ(いる)蟬の聲             (隠喩)

   声すみて北斗にひゞく(きぬた)哉            (隠喩)

   手をうてば木魂(こだま)(あく)る夏の月           (隠喩)

   牛部やに蚊の聲(くら)き残暑哉            (隠喩)

   木枯に岩(ふき)とがる杉間かな            (隠喩)

   郭公(ほととぎす)声横たふや水の上             (活喩)

   松風や軒をめぐって秋(くれ)            (隠喩)

   秋の夜を打崩(うちくづ)したる(はなし)かな           (隠喩)

 (2)視覚と触覚(または触覚と視覚)句

   野ざらしを心に風のしむ身哉          (隠喩)

   (この)あたり目に見ゆるものは皆涼し        (張喩)

   結ぶより(はや)歯にひゞく泉かな          (隠喩)

   涼しさやほの三か月の羽黒山          (喩なし)

   暑き日を海にいれたり最上川          (活喩)

   石山の石より白し秋の風            (隠喩)

   (ねぶか)白く洗ひたてたる寒さ哉           (隠喩)

   塩鯛の歯ぐきも寒し(うを)(たな)           (隠喩)

   すゞしさを繪にうつしけり嵯峨の竹       (隠喩)

   朝露によごれて涼し瓜の泥           (隠喩)

   湖やあつさをお(を)しむ雲のみね       (活喩)

 (3)視覚と嗅覚(または嗅覚と視覚)句

   蒼海の浪酒臭しけふの月            (隠喩)

   清く(きか)ん耳に香燒(かうタイ)いて郭公(ほととぎす)          (張喩)

   (その)匂ひ桃より白し水仙花            (隠喩)

   むめがゝにのつと日の出る山路かな       (声喩)

   さざ波や風の(かをり)相拍子(あひびゃうし)           (隠喩)

 (4)嗅覚と聴覚句

   松杉をほめてや風のかほ(を)る音       (隠喩)

 (5)嗅覚と触覚句

   むめが香に(おひ)もどさるゝ寒さかな       (活喩)

 (6)聴覚と味覚句

   降音(ふるおと)や耳もすふ(う)(なる)梅の雨        (隠喩)

 (7)聴覚と触覚句

   鳩の声身に(しみ)わたる岩戸哉          (隠喩)

 (8)触覚と味覚句

   身にしみて大根からし秋の風         (隠喩)

 (9)視覚と触覚と聴覚句

   たのしさや 青田に涼む水の音         (活喩)

 (10)嗅覚と視覚と触覚句           

   石の香や夏草赤く露暑し(殺生石)      (喩なし)

   

 この稿の初めに「かなりある」といった芭蕉の共感覚俳句は、このリストのとおりであり、その総数38句は、「芭蕉千句」(982句)とされる中では3.9パーセントにすぎぬのかもしれない。 しかし、私たちの日常ではそうそう体験できず、 したがって俳句という詩作品に仕上げるべきモチーフもなかなか見付けにくい共感覚の特殊性からすれば、「かなり(多い)」といえるのではないか。 現に、次回で見ることにする現代俳句の秀句中の共感覚俳句の数も、これほど多くはないのである。

 比喩の種類別に句の数を見ると、まず隠喩が27句と7割以上を占めている。 共感覚俳句と隠喩との深い関係性については先述のとおりだ。 そのほか、活喩(擬人法)が5句、張喩(誇張法)が2句、声喩(オノマトペ)が2句、喩なしが2句となり ほぼ全句が何らかの比喩表現によって詩の核心(中心的成分)を得ている点も、注目すべきであろう。、ちなみに活喩や張喩も、先に述べたグレアリング・エラーを含むこの転義(語の本来の意味が 他の意味に転じること。また、転じて生じた意味)への転用があるかぎり、隠喩の仲間だとする説があることも、ここで付記しておきたい。

 さらに刮目したいのは、これらの共感覚俳句の中には芭蕉の名句として人口に膾炙してきた句が、少なくとも10句余りはあることだ。 これらはいかにも芭蕉らしく、芭蕉句の真髄ともいえる句群である。山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(前出)もこの句群の中から、「海くれて」「閑さや」「郭公(ほととぎす)」「暑き日を」「(ねぶか)白く」「むめがゝに」の6句を取り上げている。ほかに「霜を着て」「ほろほろと」「秋の夜を」「野ざらしを」「石山の」の5句などもよく知られた名句であろう。 共感覚俳句の価値は、量ではなく質の価値である。

 いま、これらの名句を含むリスト中の各句の、隠喩の核心部分を噛み砕き、短い口語の平叙文のフレーズに書き替えてみるとどうだろう。 ちょっとランダムな例示になるが、「(捨子が)霜を着る」「(捨子が)風を敷寝する」「(木枯が)たけにかくれる」「(木下やみに)ふかぬ笛をきく」「(なみだの音が)烹(煮)える」「(蟬の聲が)岩にしみ入る」「(咄が)秋の夜を打ち崩した」「(木枯で)岩が吹きとがる」「(郭公の声が水に)横たう」「(泉が)歯にひびく」「(最上川が)暑い日を海に入れた」「(葱を白く)洗いたてたさむさ」「(嵯峨の竹の)すゞしさを繪にうつした」「(梅の香に)追いもどされる寒さ」「(梅雨の降る音で)耳もすくなる」「(水の音が)青田に涼む」……。

 このように見てくると、俳句の骨法は名詞の的確な選定にあるとする在来の諸説は、にわかに疑わしくなるほどだ。 芭蕉が苦心に苦心を重ね、内感から伸びる繊細な触手で搦め捕ってくるものは主として動詞(あるいは複合動詞)であることが歴然とする。 これは共感覚俳句にかぎってのことではないが、共感覚俳句の大きな特徴であることはまちがいない。その捕縛の仕方の狙いの中には、詩的真実を表す美的効果と同時に、俳諧に伝統的な俳味を匂わせるところもあるようだが、芭蕉一流の<高悟帰俗>の詩精神は手放していない。

 常用語としては明らかに間違っているとしかいいようのない動詞を探り出すことによって芭蕉が突き詰めたものは、「物の見えたる光」であり、それを十七文字しか許されない短詩の中へ最適な短さと鮮度で織り込むことにより、即自性のより強い充実した言語への「もの化」ではなかったか。

 それは、稀有な散文家でもあった芭蕉にとって、紀行のような散文ではとても成し遂げることはできず、かつまた、連句から独立した発句の完結性を担保する方法でもあったであろう。 表現の一挙性を旨とする短詩表現への隠喩の活用を求め、それを可能にしたものは、まるで果実の種のような存在として動詞を活かしきった真の「動詞の活用」であった。

 さて、ここにあるのは大方が主観句といってよかろう。少なくとも眼前の景や事物をありのままに写すことを目指す近代の客観写生とは相容れない、その対極にあるといっても過言ではない作法を探った詩だ。「心の味をいひ取らんと、数日腸(はらわた)をしぼる」 (『三冊子』)のような芭蕉ならば、その心裡を比喩によって表そうという意識を是としたとしても不思議はあるまい。 「心の味」を写そうとして成るものは、客観写生ならぬ主観写生というほかはない。 単なるスケッチやデッサンではなく、風韻や写意を含む本来の写生に根を下ろした俳句作法の要諦を、芭蕉は熟知していたと思えてならない。

 さればこそ、共感覚は芭蕉のモチーフになり得た。さればこそ、芭蕉は共感覚に最適な手法を探り得た。 己と対象との間に思いもよらない比喩の橋を掛け渡し、主人ー客の自由な交感の通路を拓いた。 芭蕉が呼び掛ければ、対象は光を放って応えた。芭蕉はその味わいを享受した。そこには物と心の融合、主ー客感合の世界が成り立ち、 芭蕉の創造の沃野の拡大と充実に測り知れないエッセンスを注ぎ込だ。

 ここに至って、メルロ=ポンティによる『知覚の現象学』の要約解説(前出)でまとめられた結論的な記述を、改めて思い浮かべてみたくなる。 そこでは、共感覚を生む身体が場となる「共通感覚」を知りつくした画家の例が引かれた。まさしくそういう画家が、「主ー客の対立を超えて、能動ー受動の対立を超え」て、「対象の真の経験を取り戻す」のだという。 そしてそれは、この世界が「汲みつくし得ない豊穣さを有している」あかしであると。

望月清彦


【執筆者プロフィール】
望月清彦(もちづき・きよひこ)
1935年東京都三鷹市生まれ。東京都在住。俳誌「百鳥」同人。総合誌「中央線」同人。1990年俳誌「裸子」年度賞・身延山賞、2008年角川書店賞、2011年毎日俳壇賞、2012年読売俳壇年間賞、2013年朝日俳壇賞、2020年読売俳壇年間賞受賞。同年NHK全国俳句大会龍太賞入選、2021年同龍太賞入選。句集『遠泳』(読売俳句叢書第Ⅰ期第2集)現在『読売年鑑』文学分野載録俳人、俳人協会会員。



【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】

>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ    芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉      芭蕉

【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】

>>〔1〕秋灯机の上の幾山河        吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子

【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】

>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊     杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ  後藤比奈夫
>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す   仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒     山口青邨

【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】

>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな   永田耕衣


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