ハイクノミカタ

葛の花むかしの恋は山河越え 鷹羽狩行【季語=葛の花(秋)】


葛の花むかしの恋は山河越え

鷹羽狩行
(『月歩抄』)


 葛の花というと釈迢空(折口信夫)の〈葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり〉という短歌を思い出してしまう。民俗学者であった折口信夫は、とにかくよく歩く。弟子を従えて峠越えをしたのだろう。

 折口信夫の孫弟子である夫と、長野県のとある人気の無い山路を歩いていた。「この道で合っているのか」という不安が絶えず過ぎる。峠を越えた山路に這う葛の花が踏まれ赤く滲んでいた。当然ながら迢空短歌を口ずさんでしまう。この道で合っているのだ。山路の果てに開けた農村では、頬被りの老婆が炎天下で鎌を振るって草を刈っていた。道を聞くために声を掛けると老婆は、汗を拭いながら、丁寧に教えてくれた。夫が「熱中症になるから休まれては」と言うと老婆は、「私は、あの山の向こうから嫁いで来たのさ。よそ者の嫁は働かんとね」と答えた。老婆の指す「あの山」は千曲川を挟んだ遠き山である。お見合い結婚なのかと思いきや、恋愛結婚だという。急いでいたこともあり、早々に話を切り上げたが、どのような恋があったのか気になった。老婆のつやつやに焼けた顔にかかる髪が純白で、涼しい風を呼んだのを記憶している。

 『古今和歌集』の〈風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ よみ人しらず〉は、『大和物語』『伊勢物語』に歌物語が残る。夫が別の女に逢いにゆくために越える山路を心配した妻が詠んだ祈りの歌である。浮気夫の旅路の安全を祈る歌は夫の心を打ち、よりが戻ることとなる。歌物語では、面白い恋物語を描くが、本来は山を越えて訪れる通い婚の夫の旅の無事を願う歌である。

  葛の花むかしの恋は山河越え   鷹羽狩行

 私の故郷の村の女達はみな山河の向こうから嫁いでいる。村同士の交流があり、仲介者を経て結婚に至った嫁さんばかりで、恋など知らない。ところが、茨城県新治郡という山に囲まれた豪農のお婆ちゃんから山を越えた恋話を聞いたことがある。

 夏休みも終わりの頃、高校の同級生の家に遊びに行った。友人たちは端居をしながらトランプゲームに熱中していたが、私は小豆を干すお婆ちゃんが気になって仕方がない。幼い頃から祖母の小豆干しを手伝っていた私は「お手伝いさせて下さい」と言ってしまう。八月に収穫される小豆は夏小豆と呼び、秋彼岸に間に合わせるよう干す。お婆ちゃんは、孫の同級生が手伝ってくれたのが嬉しかったのか、昔語りを始めた。

 《ちょうどな、あんたと同じ年頃に裏山の向こうから嫁いだんだ。山頂には、神社があって、稲刈りの後に祭があったんだ。早稲だから八月の終わりに刈り取って九月の頃だったんぺがな。祭の日は、朝から女どもがご馳走を拵えて、酒と肴を背負ってあの山を登ったんだ。山を挟んだ村の男女が年に一度出逢える祭でもあったんだ。10歳の頃だったぺか。神社の境内の隅で蟻地獄をほじくってる陰気くさい男の子に声を掛けたのが良ぐながった。年に一度の祭の日にしか逢わない山向こうの村の子だったし、好きかと聞かれれば好きだったかもしれん。16歳の頃、野良仕事さ終えで戻ってきたら、学生帽を被った祭の日に逢う男の子が背筋を正して居間で茶を飲んでいだんだ。そして「私を嫁にしたい」って言ったんだ。おらげ(自分の実家)は、小さい農家だが、旦那(後の夫)は豪農の長男で、父母もおったまげた(驚いた)。旦那は同じ歳だと思ってたら、実は二つ年上で、もうすぐ卒業だって言うんだわ。その後は、旦那の実家から猛反対くらって、私もそんなめんどくせいところに嫁ぎたぐねと思って断ったんだ。ところが旦那は、毎週のように山越えで逢いにくるんだ。そうこうしてる間に旦那に赤紙がやってきて、豪農の旦那の実家もお国のために死ぬ前に祝言を挙げだらって話になったんだ。祭のある山頂の神社で結婚式を挙げでね、山を挟んだ村人が集まって朝まで飲んだぐれで、初夜っていうのが、記憶ながっぺ。子を孕んだ頃には旦那は出征しちまうし、辛がった。だけんども、豪農の嫁だがら、大事にされで良がった。》

 その旦那がシベリア抑留を経て、帰ってきたのは、子供が三歳になった頃だったという。農地改革で土地は減ったものの、食うには困らなかったとか。

 お婆ちゃんは、年頃の私を見て、急に若き日の結婚話を思い出したのだろう。サービス精神旺盛なのか、随分と面白く語ってくれた。

 村の背後に聳える山の向こうに集落があり、祭の日にだけ出逢う男女の恋。お婆ちゃんの旦那は登り降りを経て2時間の山路を歩き求婚しに行ったのだ。逢瀬の後は、また2時間かけて帰って来たのだろう。恋する者の体力は現代では計り知れないものがある。

 山河を越えた恋。二人の間を隔てる山が高ければ高いほど、恋は盛り上がっていったのだ。葛の花を踏みしだいて逢いに来た恋人。そこから、女の新しい人生は始まったのだ。

篠崎央子


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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔61〕呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉  長谷川かな女
>>〔60〕あかくあかくカンナが微熱誘ひけり 高柳重信
>>〔59〕滴りてふたりとは始まりの数    辻美奈子
>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな   筑紫磐井
>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり    藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
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>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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