ハイクノミカタ

愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子【季語=泳ぐ(夏)】


愛されずして沖遠く泳ぐなり

藤田湘子
(『途上』)


 一緒に泳ぎたいのに泳ぐことができない。それは愛されていないから。王子様の愛を得ることができなかった人魚姫は海の藻屑となった。藻屑になって沖遠く泳いでいるのかもしれない。

 当該句の作者は男性である。愛されていないことの疎外感、もがけばもがくほど愛する人から遠ざかってゆく。そんな自分自身を客観的に眼差した一句だ。足の付かない沖をいつまでも泳ぎ続ける孤独、泳げば泳ぐほど遠くなる愛。実は、この句の背景には、様々な噂がある。

 湘子は、中学在学中に「馬酔木」に入会し、水原秋桜子に師事。19歳の頃、工学院工専を中退し従軍。戦後は鉄道省に勤務。そのような境遇のなか、「馬酔木」にて俳句の才能を認められ、25歳の頃「馬酔木」第1回新樹賞を受賞。

 その直後より、師匠である水原秋桜子の勘気に触れ口をきいて貰えなかった時期があるという。勘気の理由は不明である。秋桜子が湘子の才能や容姿の良さに嫉妬したという噂、秋桜子のすすめる縁談を断ったなどという噂も。どのようなすれ違いかは分からないが、師匠に疎まれてしまったのである。男性同士の師弟愛は肉体関係を持たないがゆえに複雑な心情が交差したのであろう。

 瀧春一に〈かなかなや師弟の道も恋に似る〉という句があるが、師弟愛は恋愛に似ている。弟子の師匠に対する想いは、基本的には片想いなのだが、師匠から寵愛を受ける瞬間もある。だが、些細なことで寵愛は薄れてしまう。弟子もまた、流行病のように師匠に心酔している時期もあれば、急に熱が冷めて去ってしまうこともある。師弟愛とは生涯続くものではないのだ。些細な行き違いで袂を分かつことがあるという一面は非常に恋愛的である。師匠も弟子もただ愛されたかっただけなのだ。お互いの愛を図ろうとする天秤のわずかなズレにより心は大きく揺さぶられる。師弟愛の歪みは時に激しい憎しみへと変わる。男女の愛の果ての憎しみとどちらが激しいのだろうか。

 私自身は、幸運なことに師匠を愛し、師匠からも亡くなる間際まで心配され続けた不肖の弟子である。だが、湘子の気持ちは全く分からないわけではない。

 俳句を始めて数年目のこと。私をとても可愛がってくれていた憧れの先輩から急に無視されるようになった。私は思い悩み嘆き悲しんだ。いつしか悲しみにも慣れて、無視されても気にならなくなった。そんなある日、突然先輩は、句会の後に私を呼び止めて言ったのだ。「今日の君の句、とても良かったよ」と。涙が出るほど嬉しくて一生ついて行こうと思った。最終的に先輩とは袂を分かつが、今でも大好きである。無視された理由はいまだに不明だ。きっと私に落ち度があったのだ。若き日には、不用意な発言が多いもの。あの頃は、愛されない理由をあれやこれやと考えているうちに、ものすごく遠いところまで歩き続けていたことがあった。異性の先輩だが、淡い憧れということもあり激しく憎むことはなかった。

  愛されずして沖遠く泳ぐなり  藤田湘子

 秋桜子から口をきいて貰えなくなった湘子だったが、その数年後には「馬酔木」の編集長に抜擢される。38歳の頃、秋桜子の承認を得て「馬酔木」の衛星誌として同人誌「鷹」を創刊。しかし、最終的には秋桜子より「鷹」の活動が認められなくなってしまう。湘子は「馬酔木」同人を辞退し、「鷹」を自身の主宰誌とする。秋桜子からの独立である。

 〈愛されずして〉の句は、後の独立を予感していたような句になる。きっと予感していたのだろう。拗れてしまった男女間の恋の修復が難しいように、拗れてしまった師弟愛の修復は難しい。それでも、それでも、もう一度愛されたかったのに違いない。

 誰しも自分を愛してくれない人や意志の疎通のできない人を想い続けることはできない。たとえ誠意を尽くし和解したとしても、わだかまりは残る。一度別れを決意した相手と寄りを戻したところで同じ事の繰り返しなのだ。

 とある別れた男女が数年後再会し、まっさらな気持ちに戻り再び恋をして結婚したことがある。だがすぐに離婚してしまった。男女は語った。「一度でも、もう駄目だと思った過去があったら、どんなに努力しても駄目なのだ」と。様々な事情により引き裂かれた恋であることは知っていた。だから応援した。でも一度諦めた恋は、寄りが戻ったとしても結局は別れる運命にあったのだ。

 それは、もう二度と先の見えない苦しみを味わいたくないからだ。一度でも抱いてしまった相手への不信感は消えることはない。

 愛し愛されることの難しさを知りつつも想い続けた無限の苦しみは、新しい道を切り開くこととなる。湘子は、泳ぎに泳いだ遥か沖にて自分の歩むべき新しい大地を見つけたのだ。

篠崎央子


【『藤田湘子全句集』(角川書店・2009年)はこちら ↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
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