ハイクノミカタ

人妻ぞいそぎんちやくに指入れて 小澤實【季語=磯巾着(春)】


人妻ぞいそぎんちやくに指入れて

小澤實
(『瞬間』)


 磯の花といわれる磯巾着。春になると色鮮やかな触角を菊の花のように開く。人の本能なのか、どうしても指を入れたくなる。子供の頃、磯巾着に指を入れると指の肉が溶けて骨だけになってしまうので、絶対に入れてはいけないと言われた。綺麗だけども触れてはいけない花、しかも骨を持たない変な生き物、怖いけれども憧れる存在であった。

 怖い物知らずの姉は、磯巾着に指を入れて遊んでいた。姉が指を入れると磯巾着は、触手を閉じて縮こまる。「なんか気持ちいいよ」と姉は言ったが、私は泣きながら叫んだ「指が骨になっちゃうよ」と。姉は磯辺に咲く磯巾着の全てに指を入れて赤い花を萎ませていた。

 人は、触れれば反応するものが好きだ。例えばオジギソウは、触れると葉が閉じる。園芸種として人気の高い植物だ。私も見かけると触れて反応を楽しんでしまう。またハエトリソウは食虫植物だが、触れると刺のある二枚貝のような葉を閉じる。時には生け捕りにした蠅を落とし、葉の中に閉じ込められてゆく蠅を眺めた。

 何かに包み込まれたいという願望は、誰しもあるだろう。宮本輝の小説『泥の河』では、宿船で暮らす美少女の銀子が米びつに両手をつっこんで「ぬくいで」と言うシーンが印象的である。母親が宿船にて売春をしており、貧しく寂しい時間を過ごす銀子にとって、米びつの中の米に両手を包み込まれることは贅沢な安らぎだったのであろう。いつかは母親と同じように客を取る運命にあるのだが、米びつで暖をとろうとする少女の幼さが切ない。自分の手を米に埋め、米によって手が包まれることに暖かさを見いだす行為は、母胎回帰を求める本能のように思われた。

  人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實

 エロスの句として人気の高い当該句。磯巾着に指を入れたのは、人妻なのか自分なのか。〈人妻ぞ〉の〈ぞ〉が厄介である。磯巾着は、女性器のメタファーなのかどうなのか。この危うさが名句の所以である。

 鍵和田秞子の句〈人妻の蝌蚪いぢめたき真昼時〉では、蝌蚪をいじめているのは、〈人妻〉である自分だ。人妻になっても蝌蚪の黒い群れに手を入れたり、逃げ惑う蝌蚪の尻尾をつまんでみたりしたのだろう。蝌蚪の形状やぬめりとした感触を思うと、少女のような無邪気さの中に秘めたエロスを感じさせる句である。

 〈いそぎんちやく〉の句は、指を入れたのは自分であろう。そして、〈人妻〉は憧れている女性だ。〈人妻〉という言葉が甘美な響きを持つのは、触れてはいけない花だからである。磯巾着の揺らめく触手の真中にある穴。指を入れたら、吸い込まれてしまう。柔らかな触手が自分の指を覆い、骨を持たない肉が指を締め付けてくる。母胎に帰ったような陶酔に浸ることができる。だが、気が付けば、指は溶かされ骨までも浸食されてしまうかもしれない。

 人妻も磯巾着も触れてはいけない花なのだ。指の一本も失う覚悟で恐る恐る入れた人差し指。最後には、指だけでなく身体ごと引きずり込まれ、暖かな触手に揉まれて抜け殻となるのだ。それでも包み込まれてみたい。怖い物知らずの人だけが磯巾着に締め付けられた時の陶酔を知ることが出来る。

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

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>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓
>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
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