蜩やチパナスのあたり雲走る 井岡咀芳【季語=蜩(秋)】

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蜩やチパナスのあたり雲走る

井岡咀芳
(『南洋のたび 咀芳句日記』昭和10年 非売品)


今回は、「句日記」と言えば高濱家というイメージを覆す?著名俳人ではない人物が自費出版した句日記。第二次世界大戦以前のジャワ島(インドネシア。当時はオランダ領東インド)へ旅をした時の見聞を、スケッチと句と小エッセイで綴る。この書も以前「週刊俳句」に中島敦の南方行にからめて書いたことがあるので、詳しくはそちらを参照いただきたいが、そっちの話題を広げれば一句鑑賞というより、稀書紹介の趣だろう。今後ハイクノミカタでそういう方向の記事を増やすのもありかもしれない。

さて、チパナスというのは、ジャワ島西部の都市バンドンの南東の山間にある温泉保養地。現在でも日本人駐在員に人気があるらしいのだが、昭和初期もオランダ領東インドと日本の取引は多く、貿易摩擦問題さえ生じていたそうなので、多くの日本人が駐在していたと思われる。この前の頁で作者は近くのプンチャク峠を越えているので、峠を下った先でチパナスあたりを遠望したものかと思われる。熱帯とはいえ一帯は山間部だからか、蜩のように鳴くセミもいたらしい。中八の緩さはご愛敬として、海外の旅吟としてなかなか気分の良い句であるように思う。この書物の画と句と小文を読む限り、駘蕩とした気分があって、とてもこの後十年も経たないうちに日本軍が戦争を仕掛ける場所となるようには見えないのだが、なぜ井岡がジャワ島に来たのか、ということが多少わかり始めると、個人の欲望と国家の利益の合致するところが見え隠れする。

先の「週刊俳句」の記事中で触れた本書冒頭の「句莚」を共にする一同の写真に収まる主賓木村燕靑なる人物は、執筆当時はよく分からなかったが、元チェコスロバキア公使で退職後満鉄理事となった木村鋭市である。なぜそのような人がバタビヤ(現在のジャカルタ)で開かれた句会の主賓だったのだろう。冒頭の句のように、残された俳句は政治経済と無関係に見えるが、詠んでいる人々がそれと無関係でいられる訳ではない。井岡自身はもともと己の趣味嗜好でジャワ工芸の探究の旅をして著作をしたのかもしれないが、結局彼の書いた著作物(前出「週刊俳句」記事参照)が満州とシャワという日本が植民地支配しようとした地域を対象とするものであったという事実によって、個人のレベルで国家の領土的野心の片棒を担ぐ役割を担っていたようにみえなくもない。そこを踏まえて改めてこの書を読む時、井岡の作句活動は、おそらく本人の願いとは違って、ただ駘蕩とした気分の中に置いておく訳にもいかなようである。戦争がそこにある時、残された俳句とその作者の背後を物語ることは、なかなかに厄介なことなのではないだろうか。

橋本直


【橋本直のバックナンバー】
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>>〔46〕わが畑もおそろかならず麦は穂に  篠田悌二郎
>>〔45〕片影にこぼれし塩の点々たり     大野林火
>>〔44〕もろ手入れ西瓜提灯ともしけり   大橋櫻坡子
>>〔43〕美しき緑走れり夏料理        星野立子
>>〔42〕遊女屋のあな高座敷星まつり     中村汀女
>>〔41〕のこるたなごころ白桃一つ置く   小川双々子
>>〔40〕海女ひとり潜づく山浦雲の峰     井本農一
>>〔39〕太宰忌や誰が喀啖の青みどろ    堀井春一郎
>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん    村上護
>>〔37〕水底を涼しき風のわたるなり     会津八一
>>〔36〕棕梠の葉に高き雨垂れ青峰忌    秋元不死男
>>〔35〕谺して山ほととぎすほしいまゝ    杉田久女
>>〔34〕夕立や野に二筋の水柱       広江八重桜
>>〔33〕雲の上に綾蝶舞い雷鳴す      石牟礼道子
>>〔32〕尺蠖の己れの宙を疑はず       飯島晴子
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>>〔29〕非常口に緑の男いつも逃げ     田川飛旅子
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>>〔15〕土器に浸みゆく神酒や初詣      高浜年尾
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>>〔8〕山茶花の弁流れ来る坂路かな     横光利一
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>>〔3〕大いなる梵字のもつれ穴まどひ     竹中宏
>>〔2〕秋鰺の青流すほど水をかけ     長谷川秋子
>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風       正岡子規


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


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