ハイクノミカタ

尺蠖の己れの宙を疑はず 飯島晴子【季語=尺蠖(夏)】


尺蠖の己れの宙を疑はず

飯島晴子
(「飯島晴子全句集」)


第七句集「平日」より取った。平成十年の作。尺取虫は動きが独特で、指で尺をとるのに似ているからこの名を付けられた。つまり人間は、どこかユーモラスなこの幼虫の動きに勝手に己の身体を身分けした意味を付与しているのだけれども、当の虫は己の認識する宇宙の中にあって、その世界を疑うことを知らず、習性の通り生きているのみである。「己れの宙を疑わず」には、そのような意味があるように思われる。いわゆるユクスキュルの「環世界」というやつだ。疑うことを知らないことは、いちいち行動が命がけの跳躍の連続であることも意味するだろう。俳句の世界にあわせていうなら、例の池に飛びこむ蛙もそうかもしれない。その行動の中にはあらかじめ死が織り込まれてあり、そこに疑いとか畏怖とかの入る余地はない。人はいつかは必ず死ぬ、という観念のレベルとは位相が決定的に違うところだ。この句に続けて、「尺蠖の察々進む倣うべく」「尺蠖の繊さおろそかならぬかな」と尺蠖の句が三つ続く。この「平日」は遺句集で、作者が存命ならこれらがそのまま並ぶことはなかったのではないかと想像するが、この三句をみていると、晴子は観念の位相から尺蠖を眺め、人間として尺蠖の世界に寄り添って意味を見出しているようにみえる。けれども、そこで人間が、尺蠖が己の宇宙を疑わず進んでいくことを倣うべきだというなら、それは自分が人間であることを否定するような行為でもあるはずだろう。また、尺蠖が己れの宙を疑わないという発見の裏には、逆に己の宇宙を疑い続ける人の自我意識の業のようなものを見ることもできるだろう。さて、晴子はこの尺蠖をうらやましく思っていただろうか。

橋本直


【橋本直のバックナンバー】
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>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風       正岡子規


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


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