幻影の春泥に投げ出されし靴 星野立子【季語=春泥(春)】

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幻影の春泥に投げ出されし靴

星野立子
(『続立子句集第二』1947年 菁柿堂)


いまから80年前の1941年2月5日、例の新興俳句弾圧があり、秋元不死男、栗林一石路、嶋田青峰、橋本夢道ら多くの俳人が一斉に検挙された。その前年には「京大俳句」弾圧事件も起きている。そんな不穏な時代の俳句について、『昭和俳句作品年表 戦前・戦中篇』(現代俳句協会編、2014年、東京堂)をぱらぱらと見ていたとき目にとまったのが掲句である。全集をみると前書に「昭和十六年二月二十二日九羊会・ホトトギス発行所」とあるから、この時の立子が事件をいかほど知っていたのかわからないが、句が詠まれた時にはすでに上記の俳人達は逮捕され留置所にいたことになる。だからといってこの句が新興俳句弾圧事件と関係があるというつもりはさらさらないのだが、星野立子という俳人の句のイメージからすると、どうも異質なものに見えるのは筆者だけではないのではなかろうか。

立子の句といえば、「囀をこぼさじと抱く大樹かな」や「美しき緑走れり夏料理」のような代表句をはじめ、掲句の左右の句集所収句をみても「春雨のひとひ暮して母らしく」「霞み中驚ろく赤さ夕焚火」という風で、いずれも実を離れず、難解な表現を用いず、多くは温かみのある生活や風景が詠まれている。ところが掲句は、いきなり上五に「幻影の春泥」というなんとも落ち着かない措辞が置いてある。季題を「幻影」すなわち虚として詠むということは、当然季感が薄まることになるし、景としては投げ出された靴のみがフォーカスされて実としてそこにあり、春泥はないものということになる。そして句の解釈としては、あらかじめ幻の春泥が広がっていて、そこに投げ出した靴がある、ということになるはずだ。が、実として靴を投げ出すという状況もなんだか変だ。足を投げ出すとは言うが、靴は普通投げ出さない。仮に靴を履いた人が足を投げ出しているということとしても、それはいったいどういう風景の中の出来事なのであろう。公園のベンチに足を投げ出して座っている人物のまわりにまぼろしの春泥をみたところで絵にはなるまい。この俳人の他の句を読むときのように実に即して景を読もうとすると、どうにも奇体なことになってしまう。はたしてこの句は星野立子の句作の特異点なのだろうか。もし仮にそうだとして、この作家にこのような奇妙な句を詠ませたものは、いったい何だったのであろう。不思議な一句である。

橋本直


🍀 🍀 🍀 季語「春泥」については、「セポクリ歳時記」もご覧ください。


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【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


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