【春の季語】春泥/春の泥
【コメント】ほかの季節の「泥」が季語認定されないのは、やはり「春の泥」は特別だということ。つまり、そこには喜びがある。うれしい泥、それが春の泥。
雪岸叢梅發 春泥百草生
と言ったのは、唐代の詩人・杜甫でした。意味だけをとるなら、「雪の岸辺には梅が咲き、春の泥には草が生える」くらいでしょうか。つまり、寒い地方の雪解けシーズン、芽吹きの季節の泥のことですね。
もちろん雪解けじゃなくとも、朝晩冷え込んだ土に日があたって、だんだんゆるんでくる、ということはあります。そういう泥にもやはり春らしさがあります。
たとえばもう十分にあたたかくなって、たまたま雨が降って、ぬかるんでいる土の場合はどうなんでしょうか。
そこに春だなあという思いが去来するかといえば、ちょっとあやしい。
しかしなによりもこの季語が愛されてるのは、「春泥」という漢語がもつ力なんじゃないでしょうかねえ。
「春の泥」とはちがって「春泥」というと、専門用語っぽくなるでしょう。
もちろん「春泥」と「春の泥」は、同じものを指すのだけど、口にだしたときの気分がちがう。
だってね、泥ですよ、泥。それを何かっこつけてんだって話ですよ。
でもね、俳句ってのは、そういうものなんです。どうでもいいことを、かっこつけていう。誰も目に止めないものを、愛してあげる。
つまり愛なんです、俳句は。きっと。
てな具合で、どうでもいいことを、かっこつけて言ってみた次第です。
【関連季語】雪解、春雨、春の土、春の田、水温むなど。
【春泥(上五)】
春泥に子等のちんぽこならびけり 川端茅舎
春泥になほ降る雨のつばくらめ 西島麦南
春泥に押しあひながら来る娘 高野素十
春泥にうすき月さしゐたりけり 久保田万太郎
春泥に月の轍を引き重ね 野見山朱鳥
春泥のまつくらやみに迷ひをり 星野立子
春泥に歩みあぐねし面あげぬ 星野立子
春泥になやめるさまも女らし 今井つる女
春泥の葛西にたゝむ見舞傘 石塚友二
春泥を来て大いなる靴となり 上野泰
春泥を桂馬に跳んでたのしまず 上田五千石
春泥やくもり硝子にうつる花 細見綾子
春泥にさへも決断力不足 後藤比奈夫
春泥へ並べ丸太の裸体なる 小原啄葉
春泥の位牌をすすぐ雨水溝 小原啄葉
春泥をあぶな歩きに犬の主 鷹羽狩行
春泥にとられし靴を草で拭く 稲畑汀子
春泥をこゑごゑ撥ねてゆきにけり 水内慶太
春泥を踏んで重心浮きにけり 西山睦
春泥のもつとも窪むところ照り 山西雅子
春泥の道にも平らなるところ 星野高士
春泥に贔屓の穴を作りけり 山田耕司
春泥にひとり遊びの子がふたり 下坂速穂
春泥を泳ぐ東北の零度ばかり 橋本直
春泥を握れば人の髪まじる 堀下翔
【春泥(上五以外)】
かの旗を靴もて春泥にふみにじらんか 長谷川素逝
売られゆく牛春泥をつけしまま 阿部寿雄
乳母車の車輪がつけて行く春泥 細見綾子
戰勃るか春泥に釘ばらまかれ 八田木枯
飛ばさるは事故かそれとも春泥か 岡田史乃
棟上げや春泥をくる祝酒 鶴田恭子
乗り入れて馬場の春泥匂ふかな 西村和子
武蔵野の春泥重く歩きけり 上林暁
八つ手葉に春泥のとび散つてあり 岸本尚毅
牛乳を零し春泥おいしそう 近恵
くちづけのあと春泥につきとばす 松本てふこ
【春の泥(上五)】
春の泥椿の幹にしたゝかに 西山泊雲
春の泥御用詩人が世なりけり 加藤郁乎
春の泥乾きて藁の上にあり 田中裕明
春の泥跳んでお使ひ忘れけり 黛まどか
【春の泥(下五)】
塔の前金堂の前春の泥 高濱虚子
鴨の嘴よりたらたらと春の泥 高濱虚子
寺子屋に傘多し春の泥 松瀬青々
丸善を出て暮れにけり春の泥 日野草城
曾根崎の昼闌けにけり春の泥 日野草城
風吹いて朝日さすなり春の泥 渡邊白泉
子の血吸ふ舌いつぱいに春の泥 長谷川秋子
春泥の子の血吾が唇もて覆ふ 長谷川秋子
みごもりて裾につきゐる春の泥 細見綾子
六道のどの道をいま春の泥 上田五千石
勤めあるごとく家出て春の泥 鷹羽狩行
午前より午後をかがやく春の泥 宇多喜代子
報われし恋も捨て頃春の泥 佐藤文子
遊ぶことばかりかんがへ春の泥 田中裕明
群羊に隈なく踏まれ春の泥 日原傳
うらなりの乳房も躍る春の泥 榎本バソン了壱
足が向くところかならず春の泥 草深昌子
逡巡の吸殻あまた春の泥 広渡詩乃
たつたいま猪掘りしかと春の泥 如月真菜
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】