嚔して酒のあらかたこぼれたる
岸本葉子
(『つちふる』所収)
ものを作り続けていると成功しやすいパターンや好きな表現を繰り返し使ってしまうということは良くも悪くも往々にしてある。
星野源がそれについてこんなことを語っていた。手癖で作曲するようになってきてしまったことに問題を感じていたが、普段のようにギターではなく初めてキーボードで曲を作ってみたら手癖から一気に解放されたというのだ。ギターが指を使うためなのか、「手癖」というネーミングがわかりやすいではないか。その時に出来た曲が『創造』(「スーパーマリオブラザーズ」の35周年テーマソング)。その話を知ったあとに聴いてみると確かに音の跳躍の自由度が増しているように感じられる。
手癖からの解放。これを是非俳句に応用できないものか。楽器の代理になるかわからないが、句帳に使う筆記用具を鉛筆にした時にちょっとした筆圧のストレスからは解放された。それが作句に影響を及ぼしたのかは不明である。でも、あの解放には目の覚めるような驚きがあった。
フルタイムで働いていると「いつ俳句を作るの?」という質問を受けるが、ひとつ言えるのは仕事中にふっと俳句が浮かぶことなどほぼないということである。仕事を詠んだ句は仕事から解放された時に残った感触、残像で詠んでいる。むしろオンとオフの切り替わりがあるからこそ新鮮な気持ちで詠むことができるのだ。これは仕事中の脳の手癖が一瞬解放されるためなのか?
勝新太郎主演の「座頭市二段斬り」や市川雷蔵主演の「眠狂四郎多情剣」を手がけた映画監督の井上昭は「歌手と落語家は演技がうまい」と語っていた。ある1点に秀でている人は他のジャンルでもある程度のレベルに達することが出来るということか。その中でも歌・落語と演技は相性が良く、手癖が良い方向に生きるのかもしれない。俳句は何と相性が良いのだろう。
嚔して酒のあらかたこぼれたる 岸本葉子
「あらかた」が大らかだ。こぼれたことに対してどんな感情を持っているのかは述べられていないが、「こぼれちゃった」と笑っている姿が思われるのは「あらかた(=粗方)」という大づかみな形容を用いているから。また、「こぼしたる」でなく「こぼれたる」なので嚔をした人に罪はなく、自然現象のように把握している点も大きい。こぼれたことに対して負の感情を抱いている人がこの句の中には登場しないのだ。嚔は充分に予兆があってからやってくる。酒を一度置いたりもしないくらい酔って開放的な気分になっても、それが許される関係性を持った仲間同士で飲んでいることがうかがえる。
作者の本業はエッセイスト。エッセイストが俳句を詠むことについて、散文脳と韻文脳では使う領域が違うから気分転換になるのかしらなどと考えていたが、自身の句集について語ったYouTubeの番組「岸本葉子『十九歳の狙撃兵』」の中で全く違う角度からの発言があった。
エッセイは「自分の人生を二度生きること」。それに対して俳句は必ずしも目の前にあるものでなくても良く、自分でない誰かになりきることが出来るのだという。俳句は小説のように登場人物の詳細や背景を伝える必要がないからだ。
虚と実の往来。もしかしたらそれが生き方の手癖から解放される手段になり、この大らかさにつながっているのかもしれない。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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