田螺容れるほどに洗面器が古りし
加倉井秋を
小学生の頃、下校途中に用水路があって、そこがしばしば私たちの遊び場だった。その日も、誰彼となく子供達が集まって、水中のメダカやおたまじゃくし、ヤゴなどを見ていた。すると突然、水路を跨いでいた股下を、大きな魚影が勢いよく遡ってきた。乗っ込み鮒である。私たちは興奮のあまり用水に沿って駆け出した。鮒は浅瀬のどん詰まりで引き返してくるではないか。絶好の捕らえるチャンス到来も、誰もたも網など持ち合わせていない。まんじりと手をこまねいていた矢先、近所の子が家から洗面器を持って戻ってきた。子供心に「ナイス！」と思いつつ「風呂の洗面器を用水に浸けてしまって…ちゃんと家の人の許可をもらったのかな」と少し心配になったものだ。洗面器に生け捕られた鮒の輝きは、忘れられない光景である。
洗面器は言うまでもなく顔や手の身体を洗い清めるための器だ。常に清潔であるべきものに、苔にまみれ泥臭い田螺を容れることはある種の違和感を覚える。この句の洗面器は、そう思わせないほどの寂びた風情を纏っているのだろう。長年使い古した洗面器をほかさずに田螺を容れる器として使う。本来の用途から離れた器のあわれと共に、物に愛着をもって扱う生活者の心が感じ取れる。この句が作られたのは昭和２５年。戦後の食糧難で田螺も大切な栄養源だったことを考えるとまんざらでもあるまい。物に焦点を当てることで当時の農村の暮らしの一端が垣間見える作品であろう。今ではほとんど食されなくなってしまった田螺。かの魯山人が愛したというその味を一度は堪能してみたいものだ。
（句集『午後の窓』より）
（沼尾將之）
【執筆者プロフィール】
沼尾將之（ぬまお・まさゆき）
1980年埼玉県生。「橘」同人。俳人協会幹事。俳人協会埼玉県支部世話人。 句集『鮫色』（ふらんす堂、2018年）（第43回俳人協会新人賞受賞）
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜＝日下野由季→篠崎央子（2021年7月〜）、火曜＝鈴木牛後、水曜＝月野ぽぽな、木曜＝橋本直、金曜＝阪西敦子、土曜＝太田うさぎ、日曜＝小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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