ハイクノミカタ

春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂【季語=春の水(春)】

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春の水とは濡れてゐるみづのこと

長谷川櫂
(『古志』)


 この句が時折、エロスの句として話題になるのは何故だろう。恐らく〈濡れてゐる〉という言葉がエロスの扉を開くキーワードになっているからではないだろうか。

 春には「水温む」という季語があるが、春の水は温かく指を刺すような芯を持っていない。いつまでも触れていたくなるような柔らかさがある。冬の水は、地面に垂らすとすぐに凍るが、春の水は地面を潤す。春の水により潤った地面は柔らかくなり母なる大地へと変化するのである。

 平安時代の恋の歌には、恋の歌であることが分かるような言葉が散りばめられている。「恋ふ」はもちろんのこと「(姿を)見る」「(噂を)聞く」「忍ぶ」「問(訪)ふ」「語る」「契る」など。そして「濡る」もまた恋のキーワードである。涙で袖や枕が濡れることではあるが。

 陸生動物であるヒトは、濡れることを嫌う。濡れることの不快を認識し子供はおむつ離れをするのである。古代においては、雨夜に出かけることをはばかった。身体を濡らすことは体温低下の原因ともなり異常なことだったのである。また月明かりのない雨夜は、魑魅魍魎がうごめくと考えられていた。雨夜を冒して恋人に逢いに行くことは、ルール違反であると同時に、こんな夜でも逢わずにはいられなかったという情熱を示す行為となってゆく。『源氏物語』の宇治十帖では、匂宮が雪夜を冒して浮舟に逢いにゆき、その情熱に揺らぐ浮舟の女心が描かれている。現代でも雨や雪に濡れてスナックを訪れると「足元の悪い中よく来て下さいました」とママが感激してくれることがある。

 春になると雪解水や雨が地を濡らし、それにより土が潤い作物が育ってゆく。春の水にはそのような役割がある。その一方で、ヒトの肉体にも潤いは必要である。ヒトの体内の8割は水なのだから。ふくよかな女性は体内に豊富な水を宿していると考えられている。その豊富な水は丈夫な子供を産む養分となる。ふくよかな女性が愛されるのは、大地を育む水瓶を思わせるからだ。恋を知った女は、涙を流す。流した涙の量は、情愛の深さを表してゆく。女性の降水量は、愛情の目安となるのだ。その水は、春の水のように温かく羊水を思わせるのである。濡れるという異常な状態は愛の深さの証しであり新しい命を生み出すことへ繋がってゆく。

 村上春樹の『ノルウェイの森』では、主人公は、自殺した親友の恋人であった直子に惹かれ恋仲になる。その後、心を病んだ直子は施設に入る。主人公は、何度も施設を訪れ二人きりとなった野原で愛撫をするが直子が濡れることはなかった。やがて直子は精神状態の悪化により自殺してしまう。主人公は、ライバル的存在であった親友に勝てなかったことに落胆し旅に出る。物語の最後、主人公は、大学の同級生で性交渉を持っている緑への恋心に気付く。複数の恋人を持ちながらも主人公に対し一途な感情をぶつけてゆく奔放な緑は、魅力的だ。溢れるような春の水を持っている女性である。ひたすら死に向かってゆく直子の儚さと、生命力に満ちた緑との対比が美しく描かれている。

  春の水とは濡れてゐるみづのこと   長谷川櫂

 水は、生命の源である。水のない星に生命は生まれない。乾いた女性には、新しい命は期待できない。だから豊富な水を蓄えている女性に男性は惹かれるのだ。女性はいわば、男性の水甕なのである。涙を見せる女性は情が深いと思われている。

七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ 橋本多佳子〉が名句とされるのも、作句当時未亡人であった多佳子が滴るような髪を持っている女性であることが伝わってくるからだ。水分とは大事である。

 高校生の頃、授業中に隣席の友人が「昨日、彼氏とキスしたの」というメモを書いて寄越した。大好きな歴史の授業だったこともありメモ書きの下にそっけなく「濡れた?」と書いて渡したら、「大人の発言!!」とのコメントが。「濡れる」というキーワードは、処女には刺激的だったらしい。私も恋愛小説を読み過ぎの妄想処女だったのだが。

 泣くことを美学としていた日本人。いつしか涙は恋の武器となり、さらには、夜床を濡らす愛液が愛の証となってゆく。作者が意図しない方向で当該句はエロスの句として愛されることとなった。

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
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