ハイクノミカタ

天使魚の愛うらおもてそして裏 中原道夫【季語=天使魚(夏)】


天使魚の愛うらおもてそして裏

中原道夫
『蕩児』


 熱帯魚といえばグッピーやネオンテトラだが、エンゼルフィッシュも忘れてはいけない。水槽での存在感は大きく、主役とも言える。俳句では和訳し天使魚の名で親しまれている。少し尖った口、丸い目、平べったい菱形状の体型に美しいひれを纏う。特に胸元より糸状に靡く腹びれが目を引く。白地に黒の縞模様のイメージがあるが、現在では品種改良により、淡いピンクや黄色の種類もある。

 天使魚という名ではあるが、肉食で獰猛だ。特に夏の繁殖期には、縄張りをめぐり激しい闘いを繰り広げる。人の目には愛らしく映る尖った口を武器として突っつき合いをする。傷を負うこともある。狭い水槽の中で縦横無尽に行われる闘いは、翻る鱗がきらきらと反射し、美しきひれがはためく。まるで天女の舞である。

 「愛情の裏返し」という言葉があるように愛には裏と表がある。好きなのだけれども憎まれ口を叩いたり、気を引くために冷たい態度を取ったり。本当に嫌われたのかどうか見極めるのが難しいところである。

 また、時には表向きの恋人と秘密の恋人がいる場合もある。表向きの恋人に疲れて秘密の恋人を持ち、やがて秘密の恋に魅力を感じるようになる。裏恋というと嫌な響きがあるが、裏の裏は表でもある。裏番組ではないが、裏の方が人気が高い。舞台裏を追ったドキュメンタリーは、表よりドラマチックである。秘密の恋人が、気が付けば表となることもあるのだ。

 有吉佐和子の小説『不信のとき』は、高度経済成長期の頃の小説である。売春禁止法施行から10年を経た赤線の街並などの描写も面白い。主人公の義雄がたたき上げの現場から出世し、夜の銀座を渡り歩いている場面も今となると貴重な資料である。小説は、主人公の義雄と夜遊びの師匠である小柳老人がそれぞれに抱える妻と愛人に振り回される姿を描く。読者も男達も女達に振り回されていたことに最後まで気が付かない。

 結婚15年目の義雄の妻は若作りをして、子作りにも熱心であるが未だに子供ができないでいる。小柳老人は妻に頭が上がらないながらも年若い愛人を囲い、愛人の好む油っこい料理を食べている。愛人に子供ができると有頂天になる。義雄は、過去に二回ほど大恋愛の浮気をしたことがあるが妻に知られ、逃げる形で手を切っている。そんな義雄の前にホステスのマチ子が現れ「あなたの子供が欲しい」と言われる。そして妻の道子と愛人のマチ子が同時期に妊娠し子供を産む。やがてマチ子との関係を知った妻に、義雄が無精子症で子供が作れないため、人工授精して子供を産んだことを告白される。つまりマチ子の産んだ子供も義雄の子ではない可能性が出てくる。問い詰められたマチ子は激怒し、義雄の会社にまで訴え、自分が開く店の資金を要求する。その頃小柳老人は、愛人が子供を置いて男と失踪してしまい途方にくれていた。産まれた子供達の父親は誰なのか最後まで不明である。妻と愛人を上手いこと転がしていたはずが、転がされていたのである。当時の女達は、妻であれ愛人であれ社会の裏方の存在。舞台の裏側が実は主役だったという小説でもある。

  天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫

 天使魚のような魚はどちらが表でどちらが裏か分からない。水槽に面した側面が表なのだが翻れば裏が表となる。熱帯魚愛好家は、雄と雌の天使魚を二匹ずつ飼う。合計4匹。闘いのない冬場は、夫婦で泳ぐ姿がほほえましい。私の知る限りでは、相方を変えることはない。立夏を過ぎた頃、突然闘いを始める。闘うのは雄なのだが、雌もまた果敢に縄張りを主張する。このような事情は、飼育していなければ分からないことなので、待合室や喫茶店で見かけた天使魚が闘っていれば、愛の闘いに見えるであろう。

 人もまた愛を巡って闘う。愛とは闘いなのである。敵は、恋する相手の時もあれば、同性のライバルの時もある。心情的な駆け引きができるのも人の特権である。駆け引きから始まった恋が新たなる駆け引きを呼び、最後には、何が正しかったのか分からなくなる。恋人の嫉妬心を煽るために口説いた異性や、恋の相談をしていた異性がいつのまにか本命となり、別れた恋人が秘密の恋人となることもある。

 表面は幸せな夫婦でも裏面では憎みあっていることもある。愛は憎しみにもなり、憎しみもまた愛になる。お互いの裏側まで知り尽くして真実の愛は生まれるのかもしれない。愛とは裏側が一番愛おしいのだ。

篠崎央子


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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
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>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
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>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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