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花八つ手鍵かけしより夜の家 友岡子郷【季語=花八つ手(冬)】


花八つ手鍵かけしより夜の家

友岡子郷

 幼い頃、よく耳鼻科にかかった。小学校にあがる前だったと思う。夜、耳が痛み出した私を自転車の後ろに乗せて母がもう暗くなった医院を訪ねる。声をかけると電気がつき、診察してもらったものだ。

 当時は遥かなる道のりのように思われ、どうしてあんなところまで行くのだろうと思っていたが、今ならわかる。そこは以前住んでいた頃からの係りつけだった。とんでもない距離に感じられた道のりも今グーグルマップで検索すると自転車では15分程度。当時私が母で自分の子がそのような症状を訴えたらやはりそこで診療を受けていただろう。

 耳を病むことが多かったことと今やたら音や音韻にこだわることは無関係ではないように思われる。

   花八つ手鍵かけしより夜の家

 つい先ほどまで過ごしていた我が家。テレビを消し、電気を消して外に出るまではどこか温かみのあったその家も鍵をかける音と同時に暗さに加えて静けさが辺りを覆い、一気に夜の気配に包まれた。それはスマートロックの電子音ではない。「カチャ」という音が切り替えのスイッチにふさわしい。なぜなら「花八つ手」だから。

 玄関前の植え込みというとほかにも紫陽花、白粉花、薔薇、山茶花などが思われるが、昭和時代の記憶をたどると八つ手はよく見かけたものだ。特に医院など立派な建物の前には八つ手が多かった。ブロック塀がよく似合う。

 掲句は医院ではなく自宅であろう。八つ手の葉では夜の寒々しさが感じられず、花八つ手が動かない。玄関を出ると花八つ手。振り返って鍵をかける。家が夜になり、心理的な寒さが加わる瞬間だ。

 最近の住宅や医院では舗装される面積がすっかり増え、植木鉢が並んでいたりする。季節ごとにこまめに取り換えたりしていていつでも見ごろの花が楽しめるのだが、それでは八つ手が花を咲かせるような変化を楽しむことができない。

 この句集が刊行されたのは1994年(平成6年)なので古いというには抵抗があるのだが、こうした巷の植物事情に懐かしみを覚える心にも抗うことはできない。「カチャ」という音と共に句の中の家は夜になり、私の幼き日の記憶のスイッチもオンになったのだ。

 はるかなる道のりに思われた理由を思い出した。幼いながらその医院の近くの川まで歩いて遊びに行っていたからだ。総武線で1駅以上はある距離だった。グーグルマップによると徒歩30分。大人を伴わずにその距離を歩き、川で遊ぶことが出来た。日が暮れてから一人で帰ることもあった。そんな幼少を無事に過ごせたことを稀有な幸せと思う。

『風日』(1994年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔74〕蓑虫の蓑脱いでゐる日曜日 涼野海音
>>〔73〕貝殻の内側光る秋思かな 山西雅子
>>〔72〕啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋櫻子
>>〔71〕天高し鞄に辞書のかたくある 越智友亮
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>>〔49〕しばらくは箒目に蟻したがへり  本宮哲郎
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>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる  岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人


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