ハイクノミカタ

ふところに四万六千日の風 深見けん二【季語=四万六千日(夏)】


ふところに四万六千日の風

深見けん二

 初めて四万六千日詣をしたのは俳句と出会う前だった。怪談企画を扱うことになり、同僚とお参りに行った方が良いのではないかという話になった。「どうせならこんなお得な話があるよ」と提案したのだった。1回参詣したら4万6千日分の功徳を授かるというのだからこれは行くしかないという20代の無邪気な思いつきである。何度も言うが自分が俳句を作るなどという発想がなかったので暑くて人が多かったこと以外ほぼ記憶に残っていない。そうそう、かるめ焼きの屋台が出ていた。他にも屋台はあったはずだがあまりにも暑そうだったので記憶に残ったようだ。汗を拭きつつ浅草寺に参拝を済ませ、古風な喫茶店で冷たいものを飲んだ。覚えているのはこれが全てである。

 その時お腹にいた子が俳句を作るきっかけとなってくれたので、その日お参りの御利益があったのだとしたら我が子との出会いであり、俳句との出会いといえる。四万六千日の暑さも良い句材になるので以前に比べたら苦にならない。句になる。

  ふところに四万六千日の風

 四万六千日参り(=浅草鬼灯市)はとにかく暑い。梅雨が明けていない場合もあるが、だいたい暑い。四万六千日ではなく華氏4万6000℃なのではないかと思うことがある。その暑さの中、浅草寺の仲見世通り及びその周辺は人で埋め尽くされる。浅草には外国人観光客の姿も戻ってきてすっかり疫病流行以前の賑わいが戻ってきているから今年(7月9日・10日)もさぞかし混み合うだろう。何もなくても大変な混雑なのだから。

 あの人混みの中で風を感じることは貴重な一瞬だ。団扇や扇子で煽いでも気休めにしかならない。そんな状況でもふと人混みがほぐれて風を感じることができたのだ。ふところに風が入るのだから着流しであろう。シャツでもふところに風が入ることはあるかもしれないが、浅草という場所柄から是非とも着流しであってほしい。

 「ふところ」の仮名遣いがやわらかい。ふわっと風を含んだ一瞬を文字という形でも表している。「ふわっと」と思わず書いてしまったが、その「ふ」の字のやわらかさは「懐」では感じ取ることができない。しかも曲線の多いひらがな達は風を含んだふところを象っているかのようである。

 顔に吹きつけるのではなくではなくふところに入ってくる風は、参拝する作者を歓迎しているに相違ない。通り過ぎるのではなく入ってくる風。何かをつかまえた感じがあったから俳句になったのだ。

 今年の四万六千日、両日とも30℃越え(摂氏)が予想されているが、ふところに入ってくる風を探しながら参拝すれば少しは暑さを忘れられるかもしれない。

 『花鳥来』(1991年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



【吉田林檎のバックナンバー】

>>〔56〕祭笛吹くとき男佳かりける   橋本多佳子
>>〔55〕昼顔もパンタグラフも閉ぢにけり 伊藤麻美
>>〔54〕水中に風を起せる泉かな    小林貴子
>>〔53〕雷をおそれぬ者はおろかなり    良寛
>>〔52〕子燕のこぼれむばかりこぼれざる 小澤實
>>〔51〕紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 津田清子
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>>〔49〕しばらくは箒目に蟻したがへり  本宮哲郎
>>〔48〕逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花 中西夕紀
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>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人


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