ハイクノミカタ

ひかり野へきみなら蝶に乗れるだろう 折笠美秋【季語=蝶(春)】


ひかり野へきみなら蝶に乗れるだろう

折笠美秋
(『君なら蝶に』)

掲句はおそらくこの作家のもっとも人口に膾炙する代表句であり、第二句集『君なら蝶に』(1986年12月立風書房刊)のタイトルにもなっている。初出は「俳句研究」1986(昭和61)年4月号。休刊していた同誌はこの年の1月から富士見書房で復刊した。美秋は掲句発表の翌年2月号から最晩年まで同誌に闘病記も連載しており、このあたりの経緯は名編集者として知られた故鈴木一豊氏のブログに詳しい(注1)。

もし存命なら昨年で米寿を迎えたはずのこの作家が、難病であるALSを発症しわずかに動く目と唇の動きを妻の智津子が読み取って句と文を発表したことは、当時のメデイアによって世間に広く知られることとなり、そのせいか掲句の「きみ」がその智津子を指していることはよく指摘されているところだ。だから一般には、中七下五の「きみなら蝶に乗れるだろう」には妻への深い思いが込められている、と読まれるようなのだけれども、あえて伝記的成分から離れて読むならば、蝶に乗るというのは一見すれば詩的・メルヘン的な表現であり、それゆえに「蝶」はまさに「蝶」ではあるが、現実世界の生き物の「蝶」からは読みのラインがぶれてくることになる。そしてそのことによって、「蝶」の象徴するさまざまな意味性も露出するから、「きみ」の死や霊魂などのイメージまでも呼び寄せてしまうところがあるように思う。

そこで気になるのは、「ひかり野」とは何か(あるいはどこか)ということ。冨田拓也に、「高屋窓秋が昭和45年に発表した「ひかりの地」という作品の中の〈ひかり野の日にも月にも枯れしかな〉といった作品の存在が関係しているのではないかと思われ(中略)、おそらくこの「ひかり野」は、同じく窓秋の代表作である〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉の「白い夏野」を意味するものでもあるのでしょう。」(注2)との指摘があるけれども、野のひかりを詠んだ句というならば、古くは水原秋桜子「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」なども浮かんでくる。直接の用例を少し調べてみると、短歌結社「水甕」の千葉支社が1975年に出した合同歌集にずばり『ひかり野』(水甕叢書)があって、例として窓秋より遅れ、美秋には先行する。冨田の指摘するように、美秋の用語は直接には窓秋の句の影響下にあるのだろうけれども、この用語の来歴は少し興味がわく。掲句に限って言えば、「蝶」が霊魂や死や黄泉の国、あるいは極楽浄土などのイメージを呼び寄せる記号であるからには、それと連動して「ひかり野」はさまざまな意味性を帯びてしまうのではないだろうか。その一方、この句の魅力は、そういう付帯する意味性のもろもろを突き抜けた先にあるのでは、とも思ったりするのだけれども、解釈はまだはっきりこれと定まってはいないようであるし、今後も定まらないのかもしれない。

注1 鈴木一豊 石榴舎ブログ『俳句は自伝』

注2 冨田拓也 俳句九十九折(47)俳人ファイル ⅩⅩⅩⅨ 折笠美秋

橋本直


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


折笠美秋第二句集『君なら蝶に』(1986年12月立風書房刊)

橋本直さんの第一句集『符籙』はこちら】


【橋本直のバックナンバー】

>>〔123〕自愛の卓ポテトチップは冬のうろこ 鈴木明
>>〔122〕ものゝふの掟はしらず蜆汁   秦夕美
>>〔121〕灯を消せば部屋無辺なり夜の雪 小川軽舟
>>〔120〕冬深し柱の中の波の音     長谷川櫂
>>〔119〕よもに打薺もしどろもどろ哉    芭蕉
>>〔118〕二十世紀なり列国に御慶申す也   尾崎紅葉
>>〔117〕ぽつぺんを吹くたび変はる海の色  藺草慶子
>>〔116〕集いて別れのヨオーッと一本締め 雪か 池田澄子
>>〔115〕つひに吾れも枯野のとほき樹となるか 野見山朱鳥
>>〔114〕完璧なメドベージェワが洟を擤む   秋尾敏
>>〔113〕本の山くづれて遠き海に鮫      小澤實
>>〔112〕とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな 松本たかし
>>〔111〕冬枯や熊祭る子の蝦夷錦      正岡子規
>>〔110〕夢に夢見て蒲団の外に出す腕よ   桑原三郎
>>〔109〕手を入れてみたき帚木紅葉かな   大石悦子
>>〔108〕秋の餅しろたへの肌ならべけり   室生犀星
>>〔107〕どれも椋鳥ごきげんよう文化祭   小川楓子
>>〔106〕古池や芭蕉飛こむ水の音        仙厓
>>〔105〕秋海棠西瓜の色に咲にけり     松尾芭蕉
>>〔104〕幾千代も散るは美し明日は三越   攝津幸彦
>>〔103〕海に出て綿菓子買えるところなし   大高翔
>>〔102〕駅蕎麦の旨くなりゆく秋の風     大牧広
>>〔101〕茄子もぐ手また夕闇に現れし    吉岡禅寺洞
>>〔100〕汽車逃げてゆくごとし野分追ふごとし 目迫秩父

>>〔99〕天高し深海の底は永久に闇     中野三允
>>〔98〕なんぼでも御代りしよし敗戦日   堀本裕樹
>>〔97〕おやすみ
>>〔96〕もの書けば余白の生まれ秋隣   藤井あかり
>>〔95〕利根川のふるきみなとの蓮かな  水原秋櫻子
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>>〔89〕而して蕃茄の酸味口にあり     嶋田青峰
>>〔88〕洗顔のあとに夜明やほととぎす   森賀まり
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>>〔45〕片影にこぼれし塩の点々たり     大野林火
>>〔44〕もろ手入れ西瓜提灯ともしけり   大橋櫻坡子
>>〔43〕美しき緑走れり夏料理        星野立子
>>〔42〕遊女屋のあな高座敷星まつり     中村汀女
>>〔41〕のこるたなごころ白桃一つ置く   小川双々子
>>〔40〕海女ひとり潜づく山浦雲の峰     井本農一

>>〔39〕太宰忌や誰が喀啖の青みどろ    堀井春一郎
>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん    村上護
>>〔37〕水底を涼しき風のわたるなり     会津八一
>>〔36〕棕梠の葉に高き雨垂れ青峰忌    秋元不死男
>>〔35〕谺して山ほととぎすほしいまゝ    杉田久女
>>〔34〕夕立や野に二筋の水柱       広江八重桜
>>〔33〕雲の上に綾蝶舞い雷鳴す      石牟礼道子
>>〔32〕尺蠖の己れの宙を疑はず       飯島晴子
>>〔31〕生前の長湯の母を待つ暮春      三橋敏雄
>>〔30〕産みたての卵や一つ大新緑      橋本夢道
>>〔29〕非常口に緑の男いつも逃げ     田川飛旅子
>>〔28〕おにはにはにはにはとりがゐるはるは  大畑等
>>〔27〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ   波多野爽波
>>〔26〕花の影寝まじ未来が恐しき      小林一茶
>>〔25〕海松かゝるつなみのあとの木立かな  正岡子規
>>〔24〕白梅や天没地没虚空没        永田耕衣
>>〔23〕隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな  加藤楸邨
>>〔22〕幻影の春泥に投げ出されし靴     星野立子
>>〔21〕餅花のさきの折鶴ふと廻る       篠原梵

>>〔20〕ふゆの春卵をのぞくひかりかな    夏目成美
>>〔19〕オリヲンの真下春立つ雪の宿     前田普羅
>>〔18〕同じ事を二本のレール思はざる    阿部青鞋 
>>〔17〕死なさじと肩つかまるゝ氷の下    寺田京子
>>〔16〕初場所や昔しこ名に寒玉子     百合山羽公
>>〔15〕土器に浸みゆく神酒や初詣      高浜年尾
>>〔14〕大年の夜に入る多摩の流れかな   飯田龍太
>>〔13〕柊を幸多かれと飾りけり       夏目漱石
>>〔12〕杖上げて枯野の雲を縦に裂く     西東三鬼
>>〔11〕波冴ゆる流木立たん立たんとす    山口草堂
>>〔10〕はやり風邪下着上着と骨で立つ    村井和一
>>〔9〕水鳥の夕日に染まるとき鳴けり    林原耒井
>>〔8〕山茶花の弁流れ来る坂路かな     横光利一
>>〔7〕さて、どちらへ行かう風がふく     山頭火
>>〔6〕紅葉の色きはまりて風を絶つ     中川宋淵
>>〔5〕をぎはらにあした花咲きみな殺し   塚本邦雄
>>〔4〕ひっくゝりつっ立てば早案山子かな  高田蝶衣
>>〔3〕大いなる梵字のもつれ穴まどひ     竹中宏
>>〔2〕秋鰺の青流すほど水をかけ     長谷川秋子
>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風       正岡子規


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